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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(Wiener Philharmoniker)は、オーストリアのオーケストラで、世界でももっとも有名なオーケストラの一つである。ウィーンにあるムジークフェライン大ホール(ムジークフェラインは楽友協会の意、ホールを意味するザールと続けてムジークフェラインザールと呼ばれることもある)を本拠地として活動している。
オペラの上演で名高いウィーン国立歌劇場のオーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団が、オペラ上演以外の公演を行う際にこのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を名乗る。
英語表記のVienna Philharmonic Orchestraの頭文字を取ってVPOと表記されることもある。
| Table of contents |
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2 オーケストラの運営 3 歴史 4 メンバーの活動 5 指揮者 6 外部リンク |
1941年より、毎年1月1日にニューイヤーコンサートを行っている。このコンサートではヨハン・シュトラウス2世を中心としたヨハン・シュトラウス一家の曲を多く演奏している(中でも美しく青きドナウとラデツキー行進曲はほぼ必須の選曲となっている)。(ニューイヤーコンサートについてはウィーンの音楽の項も参照のこと)
計11回のコンサートで好評を博したが、1847年にニコライが去ってしばらく活動は停滞する。1860年にカール・エッケルトが宮廷歌劇場の指揮者として加わり、定期演奏会が始まって以後、現在まで演奏会が続いている。
1870年には本拠地ムジークフェライン大ホールが完成。1875年から1882年にかけて、著名で評価の高い指揮者ハンス・リヒターを首席指揮者(常任指揮者)として迎え、オーケストラが大きな発展を遂げた。リヒターはブラームスの交響曲第2番、第3番をウィーンフィルで初演している。
1933年以後、首席指揮者をおかず、多くの指揮者の元でコンサート活動を行っている。 現在までに、リヒャルト・シュトラウス、アルトゥーロ・トスカニーニ、エーリッヒ・クライバー、オットー・クレンペラー、ブルーノ・ワルター、カール・ベーム、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ジョージ・セル、レナード・バーンスタイン、クラウディオ・アバドなどが指揮を行っている。ただし、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に指揮者が就任すると、その指揮者との結びつきは強くなるとも言われる。
初来日は1956年。中編成で指揮者は作曲家のパウル・ヒンデミット、東京宝塚劇場での公演であった。
コンサート
定期演奏会は9月~6月にかけて毎月一回程度、各2公演ずつで計20回の公演が行われる。ザルツブルクのモーツァルト週間への出演やウィーン音楽週間への出演は恒例であり、そのほかに随時特別演奏会も行っている。オーケストラの運営
世界最良のオーケストラの一つとしても知られる一方、女性団員を受け付けない方針が批判されることもある(1997年に初の女性団員、アンナ・レルケスが加わった)。ウィーン音楽院出身だけを採用し、しかも団員の直接の弟子が優先して入団するという伝統を守り続けている保守的なオーケストラである。高い演奏水準の維持は演奏者の性別や民族といった均一性を必要としているとも言われる。楽器においてもウィーン製のものが使われるという。
演奏においても、個々の奏者の技量はもちろんそれぞれ世界トップレベルであるが、伝統的な奏法・音の響きを重視して、指揮者からの要求に対して技術的に可能であってもそれを拒否することがしばしばある。
1997年2月より、それまで長らく受け取ってきたオーストリア政府からの補助金を受け取らないことを決定している。歴史
このオーケストラの発祥は1842年3月28日、作曲家でもあったオットー・ニコライが指揮者としてウィーン宮廷歌劇場のメンバーを集めて行った「フィルハーモニック・アカデミー」というコンサートとされる。もちろん、ウィーン宮廷歌劇場の付属管弦楽団としてはさらに歴史をさかのぼることができる。ハプスブルク家の「フィルハーモニック・アカデミー」当時から、運営は独立的で団員の投票でものごとが決定されるというスタイルをもち、現在でもその原則は受け継がれている。
グスタフ・マーラーが首席指揮者に就いた時代(1898~1901)には、初の海外演奏旅行を経験する(1900年のパリ万国博覧会)。以後の首席指揮者としては、フェリックス・ワインガルトナー(1908年から1927年)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1927~1930)、クレメンス・クラウス(1930~1933)などが名高い。メンバーの活動
ウィーン・フィルのメンバーを中心として結成されたウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団やウィーン・リング・アンサンブルなどの室内楽グループの活動も著名である。