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コンスタンティノープルの陥落は、1453年5月29日(火曜日)、オスマン・トルコのメフメト2世によって東ローマ帝国(ビザンティン帝国・ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルが征服された出来事を指す。オスマン・トルコはのちにこの都市の名前をイスタンブールと改名した。
この戦争の以前には、オスマン・トルコと東ローマ帝国は表向きは平和的な関係にあった。この時代になると、帝国という名前とは裏腹に、その領土は首都コンスタンティノープルとペロポネソス半島の一部モレア専制公国(古代ポリスのスパルタの近くに位置するミストラの要塞が首府)を残すのみとなっていた。東ローマ帝国の1000年を超える歴史の中で、コンスタンティノープルは幾度となく軍隊に包囲されてきたが、占領されたのは第4回十字軍による一回だけであった。また、10世紀のブルガリア王シメオンや14世紀のセルビア王ステファン4世ドゥシャンのように東ローマ帝国を完全に征服しようと意図した者はいたが、実際に成功した者はいなかった。しかし、メフメト2世はこれを目指した。
メフメト2世はボスポラス海峡のヨーロッパ側、コンスタンティノープルの城壁の外側に城を建て、都市を陥落させるための足がかりとした。この城は「ローマの城」という意味の言葉でルメリヒサールと呼ばれた。ビザンティン帝国の皇帝コンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1448年-1453年)は、メフメト2世に贈り物を送って懐柔しようとした。メフメト2世が大使の首を切って懐柔を拒否したため、コンスタンティヌス11世は戦争の準備を始めた。
コンスタンティノス11世は西ヨーロッパ諸国に救援を求めたが、教皇ニコラウス5世はバーゼル公会議で対立した東ローマ帝国を支援することを望まなかった。ここを重要な商業拠点とするヴェネチアとジェノバは援軍を送り、ビザンツ軍は2000人の外国人傭兵を含めて7000人になった。都市を囲む城壁の総延長は約26kmで、おそらく当時最も堅固な城壁であった。一方、オスマン・トルコ側は、イエニチェリ軍団20000人を中心とした100,000人の大軍勢であった。海からも包囲するために艦船を建造させた。
またハンガリー人のウルバンという技術者を雇い、当時としては新しい兵器であった大砲を作らせた。それは長さ8m以上、直径約75cmという巨大なもので、544kgの石弾を1.6km先まで飛ばすことができた。東ローマ帝国にも大砲はあったが、より小さいもので、またその反動で城壁を傷つけることがあった。ただし、ウルバンの巨砲にも欠点はあった。コンスタンティノープルのどこかの場所といったようなかなり大きな標的にさえも狙って命中させることはできなかった。一回発射した後、次に発射できるようになるまでに3時間かかった。弾として使える石が非常に少なかった。発射の反動が原因で6週間使うと大砲が崩壊してしまった。
メフメト2世は、コンスタンティノープルが唯一陸地に面している部分である西側の城壁から攻撃しようとし、1453年4月2日の復活祭の日に、都市の郊外に軍隊を野営させた。7週間にわたって、大砲により城壁を攻撃したが、十分に崩すことはできなかった。発射の間隔がとても長かったので、ビザンティン側はその損害のほとんどを回復することができた。一方、メフメト2世の艦隊は、金角湾の入り口にビザンティン側が渡した太い鎖によって、その中に入ることができなかった。この事態を打開するために、金角湾の北側ガラタに、油を塗った木の道を造り、それを使って船を金角湾に移動させることに成功した。これによりジェノバ船による援助物資の供給が阻止され、防衛軍の士気をくじくこととなったが、陸上の城壁を破る助けとはならなかった。
メフメト2世は、東ローマ帝国が支払えないことを知りながらも、莫大な貢ぎ物と引き換えに包囲を解くことを最後通告として提案した。これを拒否されたメフメト2世は、同じくすでに防衛軍が疲弊していることを知っており、まっすぐ城壁を攻略することを決定した。5月29日の朝から戦闘は開始された。攻撃の第一波は、貧弱な装備と訓練のされていないバシ・バズークたちだったので、防衛軍は多数を殺傷した。第二波は、都市の北西部にあるブラケルナエ城壁に向けられた。ここは大砲によって部分的に破壊されていたため、なんとか侵入できる場所であったが、すぐに防衛軍によって追い払われた。イェニチェリ軍団の攻撃にもどうにか持ちこたえていたが、ジェノバ人の隊長ジョバンニ・ジュスティニアーニが負傷したことで、防衛軍は混乱に陥り始めた。
不幸なことにブラケルナエ地区のケルコポルタ門は施錠されていなかった。これを発見したオスマン軍は、城内に侵入した。コンスタンティノス11世ドラガセスは最後まで指揮をとり続け、街頭での戦闘で戦死し、1000年以上続いた東ローマ帝国は滅亡した。
メフメト2世は古代から続くこの帝国への敬意を忘れなかったが、包囲に抵抗した都市に対する伝統的な処罰として、都市は3日間略奪された。 彼は「征服王」と呼ばれるようになった。コンスタンティノープルはイスタンブールと改名され、オスマン・トルコの新しい首都となった。東方正教会には手を付けず、知識人であったゲンナディオス・スコラリオス(ジェナディウス・スカラリウス)がコンスタンティノープル総主教に任命されたが総主教座のあったハギア・ソフィア聖堂はモスクに改修された。最後のギリシア人国家であるトレビゾンド帝国は1461年まで続いた。
多くのギリシア人はイタリアに逃れた。彼らはのちのルネッサンスの原動力となった。都市に残った人々はパナル (Phanar) とガラタ地区に集められた。パナリオッツと呼ばれた富裕なギリシア人たちはしばしばオスマン・トルコのスルタンに有益な助言を行い、他のギリシャ人たちに裏切り者と見なされた。
このコンスタンティノープルの陥落をもって中世の終わりと考える学者もいる。
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