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エルトゥールル号遭難事件

1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号Ertuğrul)が、折からの台風により和歌山県串本沖の熊野灘、大島の樫野崎灯台の東方沖海上で遭難した事件は、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。

現在、和歌山県串本町の樫野崎灯台側には、エルトゥールル号遭難慰霊碑が立つ。

Table of contents
1 事件の経過
2 山田寅次郎
3 親日派トルコ
4 イラン・イラク戦争

事件の経過

エルトゥールル号(全長76m)は、日本皇族小松宮夫妻のトルコ訪問に応える目的で派遣され、日本への途上のイスラム諸国で熱烈な歓迎を受けつつ、6月に横浜港に入港。オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けたが、その帰途で遭難した。

樫野崎灯台沖は岩礁が多く連なり、ここで座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して爆発、沈没した。灯台下に流れ着いた生存者が数十メートルの断崖を這い登って灯台に事件を知らせ、灯台守の通報により大島の村民が総出で救助と生存者の介抱に当たった。587名が死亡または行方不明となり、生存者わずか69名という大事故であった。この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、島民は非常用のニワトリすら供出するなど、献身的に生存者たちの回復に努めた。

やがて事件は和歌山県を通じて政府にも伝わり、明治天皇の指示で医師と看護婦が派遣され、後に生存者は「比叡」「金剛」二隻の軍艦により無事トルコへと送り届けられた。この事件は日本中に衝撃的なニュースとして伝わり、多くの義援金・弔慰金が寄せられた。

山田寅次郎

エルトゥールル号遭難事件に衝撃を受けた日本人のひとり山田寅次郎(1866年 - 1957年)は、民間で義捐金を集めようと思い立ち、事件の2年後集まった義捐金を自ら携えてオスマン帝国の首都イスタンブールに渡った。山田はトルコで熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁した。皇帝の要請でトルコに留まることを決意した山田はイスタンブールに貿易商店を開き、士官学校で学生に日本語を教え、日本政府の高官のイスタンブール訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力し、第一次世界大戦が勃発する1914年まで留まった。士官学校での教え子に、のちにオスマン帝国を打倒してトルコ共和国の初代大統領となるムスタファ・ケマルもいたと言われている。

山田がイスタンブールに滞在中に起こった日露戦争では、ロシア黒海艦隊所属の艦艇3隻が商船に偽装しボスポラス海峡を通過したとの情報がイスタンブールから在ウィーン日本大使館を経て日本に送られ、重要情報として高い評価を受けたが、晩年の山田が語ったところによればこの監視と打電を行ったのは山田自身であったとされる。

親日派トルコ

長らくロシアから圧力を受け続けて、同じくロシアの南下圧力にさらされる日本に対する親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、日露戦争が日本の勝利に帰すと、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。このときトーゴーという名を子供につけることが流行したという。

また、エルトゥールル号遭難事件と大島島民による救助活動は、トルコの人々の日本と日本人に対する印象を決定づけるに充分であった。トルコでは多くの人々が日本人に親しみを感じ、勤勉で義に篤い民族として好感を持っていると言われる。

トルコ人はしばしば中東の中でも随一の親日派であるといわれるが、エルトゥールル号の遭難と救援はトルコと日本の友好関係を語る上で第一に記憶される事件となった。

イラン・イラク戦争

時代が下って1985年3月17日イラン・イラク戦争のさなかにイラクサダム・フセインは「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」という声明を発し、イラン国内の在留外国人たちに衝撃を与えた。

各国政府は自国民を救出すべく脱出の飛行機便を手配したが、日本政府は現地との調整に手間取り、現地の日本人200名以上は搭乗便を確保できず取り残された。要請を受けていた日本航空は、タイムリミット以前にイラン領空を脱出できない見込みとなったことを理由に、テヘランへのフライトを断念した。

その際、航空機の派遣を申し出たのがイラン・イラクの隣国トルコであった。二機のトルコ航空機が215人の在留邦人を乗せてテヘランを離陸し国境を越えたのは、タイムリミット寸前のことであった。

トルコ政府は、この件に対する尽力について「エルトゥールル号のお返し」と説明した。しかし日本の政府やマスコミの事件直後のコメントでは、トルコが差し伸べてくれた救援の背後にエルトゥールル号以来の歴史があることに言及したものは一切無く、トルコ側が日土友好の起点として記憶するエルトゥールル号遭難事件も、ほとんどの日本人にとっては知られないままであった。

エルトゥールル号事件の顛末は21世紀に入ってからインターネット上の電子掲示板メールマガジンで紹介される機会が増え、一部のテレビ番組でも取り上げられるなど、日本の人々の間にも徐々に広まっている。





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