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ムアンマル・アル=カッザーフィー

ムアンマル・ムハンマド・アル=カッザーフィーمعمر محمد القذافي Mu'anmmar Muhammad al-Qadhdhāfī, 1942年 - )は、リビアの軍人、政治家。日本では「カダフィ大佐(Colonel Qadhafi)」という呼び名でよく知られている。1970年1月15日以来、リビアの実質的な元首を務める。

カッザーフィーはリビアの砂漠地帯に住むベドウィン(遊牧アラブ)の子として生まれた。1956年から1961年まで、リビア南部のフェッザーン地方で伝統的な宗教教育を受けるが、エジプトのナーセル大統領の影響を受け、アラブの統一による西洋への対抗を志す。

1961年リビア大学高等部に入学し、1963年にベンガジの陸軍士官学校に進んだ。在学中から仲間たちとサヌーシー朝王家打倒を計画し自由将校団の組織を始める。1965年に卒業するとイギリス留学に派遣され、一年後に帰国して通信隊の将校となる。

1969年9月1日、カッザーフィー大佐と彼の同志の将校たちは首都トリポリクーデターを敢行。病気療養でトルコに滞在中の国王イドリース1世を退位させ、国家の中枢機関を制圧して無血革命に成功した。カッザーフィーは上級将官や文民たちとの権力闘争にも勝利を納め、1970年1月15日までにリビアの全権を掌握する。1969年から1977年までは革命評議会議長を務め、1977年から1979年までは人民議会議長。1979年からは一切の公職を退いたが、現在に至るまで実質上の元首としてリビアを指導している。

2003年、長男のサアディー・カッザーフィーがリビアの旧宗主国でもあるイタリアサッカーチーム、ペルージャに入団したことは大きな話題となった。

カッザーフィーの思想──イスラム社会主義と汎アラブ主義

1973年からは文化革命を始め、イスラームアラブ民族主義社会主義とを融合した彼独特の「ジャマーヒーリーヤ」(欧米では「イスラム社会主義」と言われる)という国家体制を宣言した。現在のリビアの正式国号、社会主義人民リビア・アラブ国の「国」にあたる部分がジャマーヒーリーヤという言葉である。1976年には自身の思想をまとめた『緑の書』という題名の本を出版した。緑とは、イスラームのシンボルカラーで、社会主義の赤に対して「イスラム社会主義」を象徴する。

同時にカッザーフィーは、ナーセルの汎アラブ主義の後継者でもある。1972年にはエジプトのサーダートシリアのアサドと組んで汎アラブ主義三ヶ国によるアラブ共和国連邦を結成したが、本格的な統合を見ないまま5年後に解消している。

対外政策の舵取り

カッザーフィーはパレスチナ解放機構(PLO)の有力かつ公然の支持者であった。そのため1979年にサーダート大統領がイスラエルと和平したエジプトとの関係を決定的に悪化させている。また、サハラ以南の諸国におけるイスラーム派反政府組織とも強い繋がりを持つ。

1970年代1980年代の欧米やイスラエルに対する過激派のテロを彼は援助していたと言われている。1988年の死者270人を出したパンナム機爆破事件はリビアの諜報機関員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否し、国連制裁を受ける。そのためリビアはアメリカからはテロ支援国家、ならずもの国家として名指しの批判を受けつづけている。

カッザーフィーの欧米諸国との関係は常に対立的で、アラブ最強硬派と目されている。さらにテロ支援の問題から欧米との関係は悪化の一途をたどり、1986年にアメリカは居宅を狙って空爆する強硬手段を取り、カッザーフィーを暗殺しようとした。カッザーフィーは危うく難を逃れたが、この空爆により幼い末の娘を失った。

もっとも、近年は態度を変更しつつあり、1999年にはパンナム機爆破事件の容疑者のハーグ国際法廷への引渡しに応じ、2003年8月、総額27億ドルの補償に合意した。カッザーフィーは、2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件に際して、アラブ諸国の中でアル=カーイダに対する激しい非難を表明した指導者のひとりでもある。





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