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| Table of contents |
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2 王の称号 3 天皇号の成立 |
大王の称号が用いられ始めたのはいつ頃からだろうか。大王号使用の古い史料は、和歌山県の隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡の鋳銘、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣や熊本県江田船山古墳出土鉄刀の銘文などである。
隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡に以下の記述が見られる。
古墳から出土の2本の鉄剣・鉄刀銘文には大王は「ワカタケル大王」と記されている。紀年銘も「辛亥年」は471年であることが通説となっている。「大王」号が5世紀に国内で使われている確かな証拠である。
ヤマトの王が大王と称されるようになったのは、いつかははっきりしないが、5世紀には使われていたことが分かる。
第2回遣隋使(607年・推古15)の上表文(国書)には、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」(『隋書』倭国伝)とみえるように、このころには「天子」の称号も使われている。しかし、一般的にはまだ「大王」という称号が使われていたらしい。
「王」の称号は、古代中国の支配者を指したものである。地域の有力な支配者が「王」を自称した。中国をはじめて統一した(紀元前221年)秦の始皇帝は、「皇帝」と称した。その後、漢が成立する(紀元前221年)と「王」の称号は皇帝によって与えられるものとなった。「王」は「皇帝」の臣として服従するという関係になった。
日本にもこれに当てはまる例がある。
このように、日本には古墳時代以前にも「王」の称号をもつ者がいたのである。
天皇号の成立時期は、二通りの説がある。一つ目は、天皇号がはじめて用いられた時代を推古朝(593~628)であるとする従来の通説。二つ目は、天皇号は皇后の称号とともに飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)で規定され、公式に使用された、という説。近年では後者の方の説が有力である。
君主の公的な称号としての天皇号の採用は、天武朝であった可能性が強い。唐が674年に「皇帝」を「天皇」と改称したのにならい採用したのが天武ではないか、と推定されている。「天皇(大帝)」は中国古代の宇宙の最高神の名で、道教思想と深い関わりを持つといわれている。
飛鳥京跡から「大津皇」「津皇」「皇子」などの字のみえる木簡(もっかん)の削り屑が出土している。これらは天武の皇子、大津皇子の名である。同時出土の他の木簡から681年(天武10)と考えられている。皇子の称号が出てきたので、当然天皇の称号もこの時以前から使われていたであろうことは間違いない。
大王号の成立
「大王」や「男弟王」の言葉が使われている。癸未(きび)年は、383年、443年、503年、623年などの説がある。このうち443年(允恭、いんぎょう)と503年(武烈、ぶれつ)が有力である。443年を採ると5世紀の半ばには「大王」号が使われていたということになる。意紫沙加宮(おしさかのみや)(押坂宮)という宮号がみえる。しかし、釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容についても説が多い。肝心の紀年銘が異体字であるので解釈が多様化している。「大王」号の使用時期がはっきりしない。王の称号
この光武帝が奴国の王に賜綬した「印」が有名な「漢倭奴国王」(かんのわのなのこくおう)の金印である。北部九州の地域の小国家が、中国王朝から「王」として認められたのである。
帥升等とあるように、倭国王は地域の小国家ではなく、いくつかの小国の代表として「倭国の王」と考えることができる。「倭国」が誕生していたことを示すものである。この後は、卑弥呼を倭国全体の「王」として中国皇帝も認めていた。天皇号の成立