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倭人や倭国のことが書かれている中国の文献は、後漢の初頭時代に班固が書いた正史『漢書』地理志であり、王充が著した『韓苑』である。 『漢書』では、倭は朝鮮半島の南の海のかなたにあると書いており、『韓苑』では、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連あるとしている。 この当時、中国では倭について、このような二つの理解があったことを示している。
| Table of contents |
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2 その他の文献 |
主な文献
『論衡(ろんこう)』
倭人について、
「周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず」(異虚篇第一八)
「成王の時、越常雉を献じ、倭人暢草を貢ず」(恢国篇第五六)
「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人鬯草を貢す」(儒増篇第二六)
とみえる。
周代は、日本の縄文時代晩期にあたり、この当時から倭人と呼ばれる人たちがいたと考えられる。白雉や暢草(ちょうそう)は服用されたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。この草は、江南から南に生えるものである。越と並べて書かれていることからみて、王充は、倭人を呉越地方と関係あると認識していたと思われる。
異虚篇の写本に、もと倭字がなく、補ったものとの説がある。
『漢書』
『漢書』の地理志に、
「楽浪の海中に倭人有り、分かれて百余国となり、歳時を以て来たり、献見すという」
とある。
『魏書』は王沈(おうしん、?-266)の著。陳寿は参考にしている。東夷伝なし。
『魏略』は魚拳(ぎょけん)撰の佚文(いつぶん)。佚文とは一部しか伝わらない文章のこと。清代に張鵬一(ちょうほういつ)が諸書の逸文を集めて『魏略輯本』を編集している。
裴松之(はいしょうし、371-451)は、宋の文帝の命を受けて426年(元嘉6)に『魏志』に関する「注」を実施している。この注は、陳寿の省略した諸事実や陳寿が簡潔に述べている事柄などについて、裴松之が入手しえた諸資料を関係箇所に「注」として補ったものである。
『翰苑(かんえん)』は唐の張楚金(ちょうそきん)編集の類書で、蕃夷(ばんい)部のみが太宰府天満宮に唯一現存する。類書とは、各種の書物の内容を編者の考える事項別に分類収録したもの。日本に唯一伝存している『翰苑』は9世紀に書写されたものであるが誤字や脱漏が多い。『魏略』の引用が多い。
『史通(しつう)』は唐の劉知幾(りゅうちき)撰。
『太平御覧(たいへいぎょらん)』は、宋の太宗の勅を受けて李棒昉(りほう)等が編纂した類書である。この書が類書の中では最も良書として名高いが、その引用にはやはり原文を簡略にした箇所も多い。 後代の史書『晋書』『梁書』などが、倭人の出自に関しては一致して「太伯之後」という文言を記している。ただ「旧語を聞くに、自ら太伯(たいはく)の後という」の文章が両書にあって、倭人伝にはない。
『隋書』は魏徴(ぎちょう)の撰。7世紀後半。倭国伝「男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)す。黥面文身して、水に没して魚を捕る」倭国伝が608年(推古16年)の隋使裴世清(はいせいせい)の一行の見聞や観察を基礎にしたもので、7世紀初頭の倭人社会についての貴重な資料である。