一休宗純
一休宗純(いっきゅう そうじゅん、応永1年(1394年)-文明13年(1481年)は、京都生まれの室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧。後小松天皇の落胤とされている。幼名は千菊丸。長じて周建の名でよばれ、狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。一休は号、宗純は諱で、宗順とも書く。
幼時から京都の安国寺で修行し、後に何人もの僧について学んだ。
応永27年(1420年)に京都の大徳寺の高僧華叟宗曇(かそう そうどん)より印可と一休の名を受け、以後は詩・狂歌・書画と風狂の生活を送った。
応仁の乱後の文明6年(1974年)に勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられ、寺には住まなかったが、再興に尽力した。88歳で酬恩庵で没した。天皇をはじめ、民衆からも慕われた。
著書(詩集)は「狂雲集」「骸骨」など。
自由奔放で、奇行が多かったらしい。例を挙げれば、
- 印可の証明書を火中に投じた。
- 仏教の戒律で禁じられていた飲酒・肉食や女犯(性交)を行い、盲目の「森侍者(しんじしゃ)」という側女がいたり、「岐翁紹禎」という実子の弟子がいた。
- 木刀を差したり、風変わりな格好をして街を歩きまわった。などである。
このような彼の奔放な生活は、仏教の権威や形骸化などに対する批判と風刺の精神によるものといわれている。戒律や形式にとらわれず、人間臭さに満ちた生き方は、江戸時代に彼をモデルとする一休咄などの頓智咄(とんちばなし)を生み出すことになった。