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鳩摩羅什訳(旧訳)では「十二因縁」とし、玄奘訳(新訳)では「十二縁起」と訳す。他にも「十二支縁起」「十二支因縁」などと表記する場合がある。
釈迦が悟った直後、自らの苦を解決する道が正しかったかどうか、この十二支によって確認した、と阿含経 にある。人間が「苦」を感ずる原因を順に分析したものである。古い経典には釈迦の成道を十二因縁の順観(anuloma)と逆観(paTiloma)によると説く。それは迷いの事実がどのようなものであるかを正しく知ることが、とりもなおさず悟りであるという意味で、この十二因縁が迷の事実を示すものであるからである。 この十二支とは
さて、老死とは、老いて死んでゆく人間にとっての厳粛な事実をいい、生もまた生まれることである。しかし、それは単なる生命現象としてではなく、老死によって無常苦が語られ、また生においても苦が語られている。そうでなければ、釈迦の成道に何らの関係もない。したがって、老や死は苦悩の具体的事実である。それは無常苦の中を行き続ける自己を見詰めることであり、喜と楽による幸福の儚さを物語るものであり、人間生存自身の無常苦を意味している。この点で、生も単なる生命現象としてではなく、無常苦の起因、根本として求められたものである。
老死がなぜあるか、それは生まれてきたからだ、では無常苦の解決にはならない。生も苦、老死も苦、人生そのものが苦と、ここに語られる。生老死がなぜ苦なのか、毎日の生活が生老死に苦を感ぜずにはおれないような生活だからである。その生活こそ生老死を苦とする根本であり、それを有という。生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であり、取による有といわれる。その取こそ愛によるのである。
経典は、この愛について有愛(bhava-taNhaa)、非有愛(vibhava-taNhaa)、欲愛(kaama-taNhaa)の三を説いている。有愛とは生きたいと生存に願いをかける心、非有愛とは有愛がはばまれる時、生を呪うこと。欲愛とは、有愛・非有愛が外部にむかっておこることである。自分の生を願い、また呪い、他人の生を願い、また呪うことである。生命を願い、また呪う。このように、矛盾したものが同居している生命であるところに人間苦の根本がある。この生命の秘密を明らかにすることこそ、人生苦の克服の道である。
これは、単に生命の否定ではない。その生命の深淵を自覚しなければならない。それこそ受・触・六処・名色・識によって示される心の構造であり、その意識をまちがわせる無明とその行とである。すなわち、無明を克服し、すべてを一体と自覚せしめる智慧こそ、人生苦を克服する働きをもつものである。
このように十二因縁は、迷と苦が無明を原因とし、渇愛を源として展開していることを明らかにする。したがって、無明を克服して智慧を得れば生老死の人生苦はない。すなわち、自我への執着をはなれ、無我の自覚に立ちかえることが、仏教の指針となるのである。
無明の克服とは自我を拠り所とする我執の克服である。それは無我の自覚であり、自己否定である。それはいっさいの否定であり、絶待無となる。したがって、生活や生命の営みの否定である。そこには生活はありえない。
しかし、釈迦のさとりは単なる自己否定ではなく、それが本当の生活であったはずである。すなわち、無我である自己を破り去ったところに、かえって無我のまま復活しうる道があった。それこそ真実の縁起の自覚であり、仏教が仏道として生きていく指針となるのは、無我のまま生活を決然と生きていくということであるというべきである。