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平和主義

平和主義へいわしゅぎ)とは、国家や個人・団体の行動において、暴力や武力によって目的を達成することを否定し、暴力や武力以外の手段・方法によって目的を達成しようとする考え方を指す。また、暴力・武力によってしか目的を達成できない場合には、その目的の達成そのものを抛棄する考え方を指すこともある。

第一次世界大戦後、イギリスをはじめとするヨーロッパ列強諸国では、深刻な被害をもたらした戦争への反省や厭戦感を背景に、平和主義にもとづく議論や行動が盛んになった。この潮流を背景に、不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約、または締結地に因んでパリ条約、パリ不戦条約とも呼ばれる)などが締結された。
平和主義が戦争のない平時において唱えられるときには、平和である現在の状態の永続を希求する面があるため、現状維持的な姿勢や行動にむすびつく傾向があり、その点で、平和主義は現状に不満を持つ勢力から批判され、攻撃されるという力学がはたらく。

日本国憲法では、前文および第9条で平和主義を掲げており、国民主権基本的人権の尊重とならぶ三大原則の一つとなっている。

チェンバレンの宥和主義

ウィンストン・チャーチルは著書『第二次世界大戦回顧録』のなかで、「第二次世界大戦は防ぐことができた、宥和策ではなく、早い段階でヒトラーを叩き潰していれば、その後のホロコーストもなかっただろう。」と述べている。
第一次世界大戦直後のヨーロッパでは、とにかく「戦争」に対しては無前提で絶対反対、という平和主義が台頭した。

この気運を反映して、1919年パリで結ばれたベルサイユ条約は、ドイツに対して、1320億マルクという天文学的賠償額を要求し、全植民地と領土の13パーセントを剥奪、戦車・空軍力・潜水艦の保有禁止、陸軍兵力の制限(10万人以下)、参謀本部の解体など、ドイツの経済や安全保障にとって非常に厳しいものとなった。ドイツ国民はこの条約と時の政権を憎悪した。この反動で、政策を次々と推し進めるヒトラーとナチス党が国民の絶大な支持を得た。ヒトラーは「授権法」の成立により、完全な独裁者となる。

世界平和実現のため、1920年国際連盟が作られ、1924年「侵略戦争は国際犯罪である」と明記したジュネーブ議定書が採択され、1928年日本国憲法第9条の手本となった不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約、戦争ノ抛棄ニ関スル条約)が締結される。

イギリス首相チャーチルは、「この不戦条約に代表される平和主義こそが第二次世界大戦の最大の原因となった。」とのちに述べた。
ヒトラーはドイツ経済を立て直し、1935年、ベルサイユ条約の取り決めを一方的に破棄して再軍備と徴兵制の復活を発表した(陸軍の人員を12倍にし、空軍を創設)。平和主義に縛られている各国は、このドイツの行動を黙認した。
ドイツは1936年ラインラントに進駐し、これをドイツ領に復帰させる。そしてザール進駐、オーストリア併合と勢力を広げる。これに対してイギリスのチャーチルのみが警告したが、各国は戦争屋チャーチルを嫌い、無視した。
ヒトラーがズデーテンラント(チェコの要衝)を要求したことを受け、英・仏・独・伊4カ国首脳会議がヒトラーの山荘ベルヒテスガルテンでおこなわれた。イギリスのチェンバレン首相は、平和のためならズデーテンラントくらい安いと考え、要求をのんだ。帰国したチェンバレン首相は、我が首相がヨーロッパの平和を守った、イギリスが戦争を防いだ、と大衆に大歓呼の声で迎えられた。
一年後、チェコはドイツに併合される。度重なる領土併合で国力を蓄えたドイツは1939年ポーランドに侵攻、英仏はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まる。当時西部戦線のドイツ軍兵力が29個師団だったのに対し、英仏は110個師団を有し、圧倒的に英仏側が優勢であったが、実際にはポーランドを援助せず、見殺しにした。

反平和主義論

平和主義は戦争を招く、戦争する決意のみが戦争を防げるというのが第二次大戦の最大の教訓であった。
ジョン・F・ケネディはこの教訓を生かし、キューバ危機(1962年)を防いだ。
平和主義が第二次大戦を招いたことについては、E.H.カーもその著書『危機の二十年』の中で述べている。

関連項目


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