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古代の戸籍制度

古代の戸籍制度とは、飛鳥時代に撰定・編纂された律令による人民把握のための戸籍をいう。その主なものに、庚寅年籍(こういんのねんじゃく)や庚午年籍(こうごのねんじゃく)があげられる。古代の戸籍は、正倉院に残されている。

Table of contents
1 戸籍のはじまり
2 庚午(こうご)の年籍
3 庚寅(こういん)の年籍
4 古代の地方行政組織
5 戸籍制度・地方行政組織関連の年表

戸籍のはじまり

造籍に関する古い例としては、540年(欽明元年)八月の条に「秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」(『日本書紀』)とみえる。

『日本書紀』によれば、白猪屯倉(しらいのみやけ)の設置は、555年(欽明16)のこととされている。このとき、耕作に従う田部も設定され、その籍も造られたようであるが、569年(欽明30)に至って「年齢が十余歳に達しているのに、籍に漏れて賦課を免ぜられている者が多い」という事態が生じた。はじめに籍を造っただけで、後は定期的に籍を作成することもなかったらしい。

庚午(こうご)の年籍

646年(大化2)改新の詔を発布して今後の政治改革の方針を示した。しかし、今日では近江令は制定されなかったとするのが通説である。

『日本書紀』には670年(天智9)二月条に「戸籍を造り、盗賊と浮浪者とを断ず」とみえる。
畿内は、もちろん西は九州から東は常陸・上野(こうづけ)まで造籍の実施されたことを示す。氏姓を確定する台帳の機能を果たしたものと思われる。703年(大宝3)に戸籍の原簿となり、永久保存されることになった。
647年(大化3)から664年(天智3)までの間に一括投棄された飛鳥京の木簡に「白髪部五十戸、◎十口」とある。◎は五と思われる。五十戸を単位として行政的に把握する試みが進められていたことを示している。この統一的造籍・行政的村落把握を実施するには、体系的な法が必要である。弘仁格式序に「天智天皇元年に至り、令二十二巻を制す、世人所謂近江朝廷之令也」と伝えるが、近江令は存在しなかったとみられている。

庚寅(こういん)の年籍

681年(天武10)に律令の編纂を開始した飛鳥浄御原令に基づく最大の事業は690年(持統4)に全国的な戸籍の庚寅年籍の編成であった。同戸籍は、その後の六年に一度作成するという六年一造の編籍の起点になっただけでなく、五十戸一里を基準に行政的に戸を編成してその戸内の家族(戸口)の名・年齢を登録したことによって、個々の家族構成を直接的に把握することを可能にし、それを基に班田収受を行い、逆に人頭課税をする台帳の機能も果たした。また、良賤身分を定める原簿の機能を付随するようになったようである。 令に則った戸籍を媒介にして個別に人身を把握して、個別人身支配が始まったのである。 人民を地域により編成するという作業はほぼ完了し、692年(持統2)には、庚寅年籍に基づく口分田の班給が、畿内で開始された。同時に全国でも班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)が施行されたと推測される。

戸籍による個人別人民支配の関係年表
681年(天武10)飛鳥浄御原律令の編纂を開始する。
689年(持統3)諸司に令一部二十二巻(浄御原令)をわかつ。八月、戸籍の作成、浮浪人の取り締まる。
690年(持統4)九月、戸令により庚寅年籍を造る。
691年(持統5)三月、良・賤身分を区別する規定を定める。四月、開放された奴卑の身分を庚寅年籍で確定する。十月陵戸の制を定める。
692年(持統2)畿内で口分田の班給を開始する。全国的にも行われた。九月、班田大夫を四畿内に遣わす。
693年(持統7)一月、百姓に黄色衣、奴に黒衣を着させる。三月、桑・紵・梨・栗などの栽培を奨励し、五穀の助けとする。
694年(持統8)藤原宮に都を移す。
697年(文武元)持統天皇譲位し、文武天皇即位する。
700年(文武4)三月、王臣に令文を読習させる。律条を撰定する。諸国の牧地を定め、牛馬を放牧する。
六月、刑部親王・藤原不比等等に、大宝律令を撰定させる。
701年(大宝元)六月、新令によって政治を行う。八月、律令の選定を完成する。明法博士を西街道以外の六道に派遣し、新令を講義させる。
702年(大宝2)大宝律を天下にわかつ。七月、新律を講義する。十月、大宝律令を諸国に領下する。 十二月、持統太上天皇没する。
703年(大宝3)庚午年籍を戸籍の原簿とする。
706年(慶雲3)田租の法を定め、町別十五束(成斤の束)にする。
710年(和銅3)平城に遷都する。
711年(和銅4)諸司に律令を励行させる。
713年(和銅6)度量・調庸・義倉等に関する五条の事を定める。四月、丹後・美作・大隅の三国を建てる。五月、郡・郷名を好き字をつけさせる。
715年(和銅8)五月、逃亡三ヶ月以上の浮浪人に、逃亡地で調庸を課する。
715年(霊亀元)九月、里を郷に改め、郷を二・三の里に分ける。
717年(霊亀3)四月、百姓の違法の出家を禁じ、行基の活動を禁圧する。五月、太計帳・青苗簿・輸租帳などの式を諸国に領下する。五月、能登・安房・石城・石背の四国を建てる。国別の衛士数を定める。この年、藤原不比等等に命じて、律令を撰定する。(養老律令)
719年(養老3)天下の民戸に陸田を給する。

古代の地方行政組織

地方行政組織のはじまり

実際に戸籍を作成するのは地方の行政組織である。その地方行政組織はどうなっていたのだろうか。

『日本書紀』成務五年九月の条

  • 「諸国に令して、国群に造長を立て、県邑に稲置(いなぎ)を置く。」

古事記』成務段 成務天皇は13代で、応神(15代)仁徳(16代)や倭の五王よりも遡り、4世紀のことで時代でいうと古墳時代の前期にあたる。『日本書紀』編者得意の潤色である。論外である。

一応『記紀』とも国・県という地方制度を伝えている。また、『日本書紀』大化元年(645)八月庚子(こうし)条の東国国司への詔にも「県(こおり)稲置」という語がみえる。

これらの史料から、県には、畿内では県主の県(あがた)、東国では稲置の県(こおり)があった、と考えられる。

『隋書』倭国伝は、600年(推古8)の遣隋使の記事に続き、倭国の制度や風俗のことを載せている。

倭国には120の国があり、それぞれの国造のもとに10人ずつの稲置が属した。稲置は中国の里長のようなもので、80戸ごとに一人の稲置が置かれた。

これは、推古朝当時の地方制度を伝えたものと思われるが、全国的のこのようであったかどうかは疑問の余地がある。国造とはヤマト王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものであったといわれる。因みに、『隋書』の撰者魏徴(ぎちょう)は643年(唐太宗貞観17)に亡くなっている。

律令制下の地方行政組織

地方の行政組織が全国的規模で動き出したのは天武朝においてであったと思われる。 その基礎となる戸は、正丁(せいてい)成年男子を三丁ないし四丁含むような編成を編戸(へんこ)といい、一戸一兵士という、軍団の兵士を選ぶ基礎単位になった。

地方は一般にの行政組織に編成され、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。

国司は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)・史生(しせい)が置かれた。国司は、中央から天皇のミコトモチ(御言持)として交替で赴任し、郡司を指揮して国内の支配に当たった。
国にも大・上・中・下の四等級があり、中国には介がなく、下国にはさらに掾も置かれないなど、職員の異同があるが、等級区分の基準はつまびらかではない。

因みに、諸国には軍団が設置され、国司がこれを統率した。 軍団は、兵士千人で構成され、大毅(だいき)一人・少毅二人がおかれた。その内部は、五十人で一隊(騎兵隊・歩兵隊)で構成され、隊正(たいせい、五十長)が隊を、旅帥(りょそち、百長)が二隊(百人)を、校尉(こうい、二百長)が四隊をそれぞれ統率した。そのほかに事務職員の主張が一人置かれた。実際は千人に満たない軍団もあった。六百人以上の場合は、大・少毅各一人、五百人以下ならば、ただ毅が一人置かれた。 大毅・少毅(あわせて軍毅という)もまた郡領と同じく在地の首長層から任命された。

郡司は、大領(だいりょう)・少領(しょうりょう)・主政(しゅせい)・主帳(しゅちょう)が置かれた。大領・少領を合わせて郡領という。郡領にはかつての国造一族などの在地首長が任ぜられた。終身の職であった。 郡は二十里、二十里は千戸を上限として、その領内に含まれる里数によって五等級に区分される。大郡は十六~二十里、上郡は十二~十五里、中郡は八~十一里、下郡は四~七里、小郡二~三里で、下郡には主政が置かれず、小郡では大領・少領を区別せずにただ領一人にを置いた。 郡は、六世紀の中葉頃の欽明朝に屯倉の設置が拡大されていき、ヤマト政権の地方政治組織となっていった。史の支配の及ぶ土地と人間の総体を指して「コオリ」と呼んだらしい。コオリの称は、律令制下の郡の和訓とされ、現代まで受け継がれている。元来は朝鮮語で、大きな城邑(じょうゆう)を意味する言葉である。郡の制度は701年(大宝元)施行の大宝令に始まるが、それ以前の地方行政組織は「評」と書かれ、「コオリ」と称された。

里長

里は五十戸で構成された。

全国はさらに畿内・七道に区分される。畿内は当初大倭(やまと)・河内(かわち)・摂津(せっつ)・山背(やましろ)の四カ国からなり、四畿内と称されたが、のち河内の国から和泉(いずみ)の国が分立して五畿内となった。

七道は京を中心にして四方にのびる幹線交通路(水路も含む)に沿った行政区分で、東海・東山・山陰・山陽・南海・西海である。このうち西海道には太宰府(だざいふ)が置かれた。国境の防衛や外交事務に当たるとともに、管内諸国島を統轄した。

さらに摂津の国には摂津職(しき)が置かれ、国司の職務も兼ねた。摂津職は、難波津を管理し、京と西国の間を上下する公使の検査などを本来の任務としたが、天武朝に難波が副都とされ、また聖武朝にも難波宮が造営されると、その管理にも当たった。難波宮の廃止に伴い793年(延暦12)には摂津職が廃止され、摂津国と改めた。

京には左右の京職(きょうしき)が置かれ、京内の政務全般をつかさどった。京は御所からみて東側が左京、西側が右京である。縦横の大路によって碁盤目のようにきれいに区画された。その区画を南北に連ねた列を坊(ぼう)と呼び、東西に並んだ区画を条(じょう)と呼んだ。各坊には坊長が置かれ、左右京には条ごとに坊令(ぼうれい、条令)が置かれた。この京(京職)、条(坊令)、坊(坊長)の行政組織は、国(国司)、郡(郡司)、里(里長)と対応している。

戸籍制度・地方行政組織関連の年表

689年(持統4)飛鳥浄御原令、諸司に令一部二十二巻をわかつ。
670年(天智9)全国的に戸籍(庚午年籍)を造る。
690年(持統4)戸令により戸籍(庚寅年籍)を造る。
702年(大宝2)大宝律令を諸国に領下する。
703年(大宝3)庚午年籍を戸籍の原簿とする。
715年(霊亀元)里を郷に改め、郷を2・3の里に分ける。
718年(養老2)養老律令を選定する。
723年(養老7)墾田開発のため、三世一身法を施行する。11月奴卑口分田の班給を12歳以上とする。




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