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南京大虐殺

南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争のさなかの1937年に旧日本軍中国南京市で起こした、または起こしたとされる虐殺事件。中国では南京大屠殺といい、日本では単に南京虐殺南京事件とも呼ばれる。この事件については、様々な論争がある。

Table of contents
1 事件の概要
2 事件の全容について
3 否定説について
4 南京大虐殺を描いた作品
5 関連項目
6 外部リンク

事件の概要

1937年(昭和12年)12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたり、日本軍が南京市民や中華民国軍捕虜を相当数殺害、同時に、非武装の兵士や市民に対する殺戮だけでなく、掠奪や放火、強姦も多発したとされる。

この事件は、情報統制と報道管制が厳しかった日本では殆ど知らされていなかった。それでも軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官の間でこの事件の事は伝わっており(前者の代表的な例としては岡村寧次陸軍中将関係の記録が、後者の代表的な例としては石井猪太郎外務省欧亜局長の日記が、夫々挙げられる)、日本の民衆の間でも流言蜚語としてひろまっていた(流言の伝わるルートとしては軍人が戦地から内地に当てた手紙が挙げられる)。また、日本の外へ目を向けてみると、欧米ではシカゴ・デイリーニューズやニューヨークタイムズ、中国では大公報などのマスコミによって“The Rape of Nanking”“ Nanking Atrocities"としてリアルタイムで報道されていた。

一般の日本人に虐殺の事実が知れ渡るのは、1946年(昭和21年)5月3日から始まった極東国際軍事裁判(通称 東京裁判)に於いてである。この裁判では方面軍司令官だった松井石根(まついいわね)が、虐殺命令を下したとしてA級戦犯として訴追されて絞首刑となった。しかしながら最高責任者である上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王については訴追すらされていない。

事件の全容について

東京裁判の後、虐殺の事実は忘れ去られ、虐殺を取り上げた研究も洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社 1967年)のみしか無かった。再び脚光を浴びるきっかけとなったのは、日中国交回復直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の「中国の旅」という連載記事である。この記事において、南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された(しかし、本多記者の取材は中国が用意した特定の「人民」の証言を検証せず記事にしていたことが判り、その記事の信憑性を疑う意見も多い)。

その後、後述する虐殺事件に対する否定説が登場し論争が巻き起こるが、意外なところから虐殺に関する研究が進むことになる。それは、家永三郎が起こした教科書検定をめぐる訴訟であり、この訴訟では南京大虐殺の記述を削除したことについて争われた。 それを受ける格好で、洞・本多両氏を始めジャーナリストや歴史研究者が集まって南京事件調査研究会を発足。研究会は日中双方の資料や証言を突き合わせて虐殺事件の全容を解明していった。同じ頃、旧陸軍将校の団体である偕行社が南京攻略戦参加者の証言を機関紙で掲載し、その結果3~5万人を虐殺した事実を認めたのである。

現在でも虐殺の犠牲者数は、正確には判っていない(中国は20万人~30万人を公式に主張している)。しかし被害者数の増減には論議があるが、日本・中国双方軍民の証言や記録をつき合わせてみると少なくとも3~5万人多く見積もって10~20万人が犠牲になったと言うのが世界的には受け入れられている。

否定説について

南京事件の存在について、その存在自体を疑う議論は以前から少ないながらも日本にあった。最も早く単行本として出版された否定論は、五島広作(毎日新聞記者)と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 1966年)である。しかし、ベトナム戦争の影に隠れ、当時この本が注目されることはなかった。 次に否定論が現われてきたのは、右派が本多勝一記者の「中国の旅」を攻撃する過程においてである。このとき、否定論の先陣を担ったのは、イザヤ・ベンダサン(山本七平と同一人物とされる)と鈴木明氏である。両者に共通することは、ルポ「中国の旅」全体からすればほんの一エピソードに過ぎない百人斬り競争を虚構と主張することで、「中国の旅」や「南京大虐殺」全体が虚構であるかのように思わせることだった。 三番目に否定論が大きく取り上げられるようになったのは、1982年の教科書問題の時である。この時、否定論の中心となったのは元雑誌記者である田中正明氏である。しかし、この時は、否定派が破綻することで決着がついた。というのは、田中正明氏が松井石根大将の陣中日誌を編纂する際に、600箇所もの改竄を加えていたことが、同じ否定派である板倉由明氏に暴かれたからである。
近年は自由主義史観の台頭、インターネットの普及等にともない論議が活発化し、否定派の主張について触れる機会も多くなってきた。それにともない、否定派の主張に同意する人も増加した。しかし、被殺害者数が0に近いと信じている人はほとんどいない。
なお、これらの南京大虐殺否定論については、吉田俊「歴史をめぐる戦い」にもっともよくまとめられている。

否定派は南京事件に対し、次のような指摘をおこなっている。

肯定派の見解には、
「国際的にも学術的にも、現時点では否定説は論点にさえされていない。」
「また当時の日本軍の風紀の乱れを指摘する説もあり、史料の否定だけでは事件の起こる可能性を覆すことはできない。」
「その結果、一部の証拠史料の誤用、規模や時期の問題、等を考慮したとしてもなお、『やはり南京事件はあった』とする見解が世界の趨勢を占める。」
等、状況証拠的証拠と主に国連常任理事国の政治的意図を考慮しない意見も多く、論争の決着をみていない。

南京大虐殺を描いた作品

関連項目

外部リンク





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