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1952年7月、当時ナイター設備のなかった同球場での西鉄-毎日戦は日没も近いという雨天の中で開催されたが、西鉄の一方的なリードで迎えた試合で毎日の湯浅禎夫監督はわざと試合を中止(ノーゲーム)にしようと工作を働き、それが決定すると西鉄ファンからの猛抗議を受ける羽目になった「平和台事件」が発生したのをきっかけに1953年、ナイター照明設備が設置された。その1953年には中西太が同球場のバックスクリーンをはるかに越える160メートル弾を放ったことで話題になった。
1954年のリーグ初優勝から始まる黄金時代は、豊田康光、中西、大下弘、稲尾和久らを擁した超豪華ラインナップで、1956 - 1958年には巨人を下し日本一3連覇を飾る。特に1958年のそれは3連敗の後の雨による中止が引き金となり奇跡の4連勝を果たした。
1970年代に入ると黒い霧事件の影響を受けて西鉄の経営意欲がなくなると、1973年中村長芳(当時のロッテ・オーナー)によって買収し太平洋クラブ・ライオンズ→クラウンライター・ライオンズとなるが、黄金時代の輝きを取り戻すことが出来ず、観客動員も大幅な減少に陥る。1978年10月、西武鉄道グループに買収され西武ライオンズとなった際、平和台から撤退(=埼玉県所沢の西武ライオンズ球場に移転)。福岡からプロ野球の灯が一旦消滅した。
1979年に九州地方初の全面人工芝グラウンドに一新され、各チームが平等に公式戦を開催したが、1988年9月に南海ホークスがダイエーに譲渡された際、フランチャイズをここ福岡県に移し平和台球場を主戦会場にしたチームが10年ぶりに帰ってきた。1990年、バックスクリーン左に大型映像装置「ホークスビジョン」が設置された。
しかし、アジアの玄関口とされる鴻濾館(こうろかん)遺跡が発掘されたため、同所を歴史公園として再整備することが計画化された。そしてダイエー主導で百道(ももち)の埋立地に多目的ドーム球場(福岡ドーム)の建設が進んでいることもあり、プロ野球の公式戦開催球場としてはその完成前年の1992年度を最後に終了し、以降はアマチュアの公式戦を主として開催してきた。1997年、歴史公園整備の本格着手に伴い球場が完全閉鎖。約半世紀に渡って九州の野球界をリードしてきた球場の歴史に幕が下りた。現在この地に記念碑が建立されている。