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徳川秀忠(とくがわひでただ、天正七年七月七日 - 寛永八年一月二四日(ユリウス暦1579年7月30日 - グレゴリオ暦1632年3月14日))は、江戸幕府第二代征夷大将軍(在職1605年 - 1623年)。
徳川家康の三男として生まれ、同母弟に松平忠吉がいる。幼名は長松。長兄信康は秀忠の生まれた年に織田信長の命で切腹させられ、次兄の秀康は豊臣秀吉の養子に出されて結城氏を継いだので、秀忠が実質的な世子として処遇されて14歳で中納言に任官し、江戸中納言と呼ばれる。1595年には信長の姪於江与と結婚。1600年の関ヶ原の役では、東海道を進む家康本隊に対して中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられたが、信濃国上田城攻めに時間を奪われて九月十五日(西暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった。
1603年に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、1605年に秀忠に将軍職を譲った。秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執り、武家諸法度・禁中並公家諸法度の発布を行った。大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、1615年、豊臣氏を滅ぼす。豊臣秀頼に嫁がせていた娘の千姫は助け出された。
1616年に家康が死去したのちは、土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、御三家を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。
1623年に将軍職を世子家光に譲るが、自身は江戸城西の丸(現在の皇居)に移り、大御所として再び父家康にならった二元政治を行う。晩年の1629年に紫衣事件を起こして朝廷・寺社統制の徹底を示した。1631年には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌1632年年初めに亡くなった。
法名は台徳院。墓所は、東京都港区の一角にあった台徳院霊廟であったが戦災で焼失し、1958年に台徳院霊廟が増上寺本堂近くに移転改築された際、土葬されていた秀忠の遺骸も荼毘に付されて改葬された。