井上馨
井上馨 いのうえかおる
天保6年11月28日(新暦 1836年1月16日) 生誕-1915年(大正4年)9月1日死亡 (81歳)
- 記事が長い(85KB)との事で、1865年(慶応元年)30歳までをこの稿(31KB)で、
- 1866年(慶応2年)31歳から1875年(明治8年)40歳までを井上馨2に、
- それ以後を井上馨3に分割した。
明治13年 45歳
生い立ち
天保6年11月28日(新暦 1836年1月16日) 周防国湯田村(現在の山口市湯田)で萩藩士の井上五郎三郎光亨の次男としてに生まれる。幼名勇吉。100石取りの家柄であったが実際に は1年に40石を支給され困窮はしないまでも余裕があるという家計ではなかった。父光亨は徳山藩士棟居景敏の弟で養子で躾に厳しく生活は質素であった。耕作もし、馬を1頭飼っており武士とはいえ農家の生活と変わらぬ点が多かった。
1851年(嘉永4年)(16歳) 兄幾太郎と共に藩校の明倫館に通学。萩に古屋を借り自炊生活をする(山口から萩まで直線距離で約25Kmある)。
1853年(嘉永6年)(18歳)
役所勤めの始まり
1854年(安政元年)(19歳)
藩主毛利敬親の御前警備の列に加わる。
1855年(安政2年 20歳)
1月24日 萩藩士志道慎平の養子となり文之輔と改め、惟精と名づく。志道家の娘との間に長女芳子の名が見られる。(投稿者注、芳子の詳細不明である。)
9月2日 藩主の参勤に従い初めて江戸に出る(10月3日着)。毛利家の上屋敷である櫻田邸内の有備館に寄宿した。有備館は江戸在番士の為、文武を講習する所であった。
- (萩~江戸間の旅程は参勤で1ヶ月、急行で20日程度、最急行では15、6日位であった)
1856年(安政3年)(21歳) 2月19日藩主と共に帰国し3月18日萩に到る。
1857年(安政4年)(22歳) 9月5日藩主を警衛し10月5日江戸に到る。
1858年(安政5年)(23歳) 江戸において岩屋玄蔵に蘭学を学び、砲術修行のため江川太郎左衛門(江川坦庵)の塾に入門。剣術を齋藤弥九郎の塾に学んだ。
- 従来、諸藩の士は太平に慣れ親しんでいたが、黒船来航以来、武道に励むようになった。この年4月23日彦根藩主井伊直弼大老となる。7月5日将軍家定薨去、10日 日蘭通商条約締結、11日 日露通商条約締結、18日 日英通商条約締結、9月3日 日仏通商条約締結
1860年(万延元年)(25歳) 藩主より聞多()の名を賜る。
閏3月12日 井上は海外の兵法を学ぶ為にもオランダ語を学びたいと申し出て藩政府より蘭学修業を許された。 同年4月26日藩主敬親に従い帰国。
1861年(文久元年)(26歳)
9月19日 藩主敬親の公武合体案を幕府に進言するための出府に従い11月13日江戸に到着。
1862年(文久2年)(27歳)
英語学習を希望
6月6日 藩主の入京に従い中仙道を経て7月2日京都に到着。7月25日藩主敬親の養嗣定広(1839-1896)の小姓役を命ぜられ8月19日より江戸在勤となる。攘夷には強力な海軍力が必要と訴え、海軍研究の為、長嶺内蔵太、大和弥八郎と共に、英語修業を命ぜられる。
外国船の購入
9月2日 長州藩は英国ジャーディン・マセソン社(Jardine Matheson)の汽船ランスフィールト号(Lancefield 300馬力、長さ70メートル)を購入。この年の干支に因んで、壬戌丸と名付けられた。井上と同僚の長嶺と主任の山田亦介の3名は購入担当を命ぜられ、横浜の伊豆倉商店(長州藩御用達の大黒屋の営む貿易会社)に必要な洋銀の購入を一任した。洋銀を一挙に購入するとドル相場が暴騰するので、伊豆倉商店に一任すれば手数料は要らないとの事であった。購入価格は支店長ケスウィック(Keswick)と英国領事ガワー(Anthony James Gower)との交渉から12万ドルと決められた。山田主任が船長となり、井上、長嶺内蔵太、大和弥八郎、遠藤謹助、森重健蔵等は乗組士官を命ぜられた。船の引渡しを受けたものの、運転出来る者がおらず、技術に習熟するまで、外国人を必要とした。攘夷を唱えるのに外国人を雇用するのは問題であったが、妥協案として攘夷の実行までは時間があるから開戦の時期になったら解雇する事で藩政府の了解が得られた。しかし結局、幕府の海軍奉行勝安房守の塾で機関学を教授していた庄内藩士高木三郎(1841-1909)を招き指揮運転が可能になった為、外国人を解雇し、ようやく横浜から品川沖まで回航する事が出来た。乗組士官らと山田船長との不和により険悪な事態に到った為、藩邸より周布政之助(1823-1864自刃)が船内に出張して調査し、船長は北条源蔵、機関担当を平川藤兵衛、来島亀之助に、事務担当を梅田虎次郎、航海担当を長嶺豊太郎とした。任を解かれた井上、長嶺、大和の3名は海軍興隆の為に英学を修業する事は従来どおりであった。
外国公使襲撃計画
11月11日 高杉晋作は、「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば、、、」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志※高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵(1825-1865甲子殉難十一烈士の一人)、寺島忠三郎(1843-1864禁門の変にて死亡)、有吉熊次郎(1842-1864禁門の変にて死亡)、赤禰幹之丞(1838-1866)、山尾庸三(1837-1917)、品川弥二郎(1843-1900)が相談した。しかし久坂が土佐の武市半平太(1826-1902切腹)に話したことから、これが無謀であるとして山内容堂(1827-1872)を通して毛利定広に伝わり実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作った。(注※ 血盟書に署名のある者11名)
品川御殿山の英国公使館焼き討ち
12月12日 高杉、井上、伊藤ら12名は品川御殿山の英国公使館焼討ちを決行。犯人は発覚しなかった。12月25日 井上は襲撃の後患を恐れ京都に向かう。
1863年(文久3年)(28歳)
1月 昨年11月の襲撃計画に関与した者は7日間の遠慮(軽い謹慎刑)に処せられた。
1月20日頃、上京していた佐久間象山を三条の池田屋に訪れて意見を聞き、海軍興隆の意思を固めその学術研究の為に洋行の希望を抱くようになった。
1月22日 佐久間象山との邂逅で情熱をかきたてられ、藩主毛利敬親父子に許可を請うたところ、敬親は「かかる事柄は(ご禁制であるから)直接に請願すべきものでない」旨を諭したのみで、別に不同意の様子は見られなかった。そこで、藩政府幹部に懇請したところ、周布政之助、林主悦、毛利登人(1821-1864斬罪)、桂小五郎等も人を海外へ派遣することは予て考慮していた所であるので井上の希望を容れる事になった。同志のうち高杉晋作は洋行に賛成したが、久坂玄端と品川は不同意を唱えた。
- 長州藩ではこの時期、すでに外国を見てきた藩士が2名おり※、若者の海外を見聞したいという情熱には理解があったと思える。
- ※ http://www5.ocn.ne.jp/~seigadou/sawamoto2.html 「忘れられた郷土の先輩たち」
2月2日 毛利定広の命により、脱藩していた高杉晋作を召還するため江戸に向かう。高杉は上京したものの、藩職に就く事を嫌い、毛利定広に願い在野にあって尊皇攘夷の仕事をすることとなり、髪を剃って「東行」と称した。しばらく諸藩の同志と交遊し、活動しようとしたが思うとおりにならず、(多分、肺結核の悪化もあってか)国許に帰った。この頃、井上は伊藤に洋行(密航)を勧めている。
密航計画
4月18日 井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命を受ける。
4月28日 洋行の為、井上は野村と共に京都を発ち、5月6日江戸に着く。
5月7日 英国領事ガワーを訪ね洋行の志を述べ周旋を依頼する。ガワーからは船賃が700ドル(約400両)1年間の滞在費を含めると千両は必要と聞かされる。江戸到着後更に2人(遠藤・野村)増え5人分つまり五千両が必要になった。洋行に当たって藩主の手許金から一人200両(井上、伊藤、山尾の3人で600両)を支給されたが当然足りなかった。そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談し、麻布藩邸に銃砲購入資金として確保していた1万両の準備金があったので、佐藤は「藩邸の代表者が保証するなら5千両を貸す」という事になり、藩邸の留守居役村田蔵六に、死を決してもその志を遂げたいと、なかば脅迫的に承諾させ、5千両を確保することが出来た。
5月12日 ガワー総領事の斡旋でジアーディン・マジソン社の船で横浜を出港し、上海に向かう。同行5名は年齢順に年長から、井上聞多(満27歳)、遠藤謹助(1836-1893 27歳)、山尾傭三(1837-1917 25歳)、伊藤俊輔、野村弥吉である。この5名はロンドン大学に長州五傑として顕彰碑が建てられている。井上は密航という犯禁の罪が養家先に及ぶ事を恐れ志道家を離別。
上海到着
5月18日頃 上海に着きジアーディン・マジソン社の支社長に面会した。話が通じず、結局支社長は「お前達は何の為に洋行するのか?」と聞いているらしいから海軍を研究すると言おうとして、「ネイヴィー」とすべきところ間違って「ナビゲーション」の一言を発した。この言葉を支社長は「航海術」と理解した。
- 当時の上海は東アジア最大の、西欧文明の中心地として発展していた。彼らは、上海の繁栄と100艘以上の外国軍艦と蒸気船を目の当たりにして、「攘夷」という無謀な事をすればすぐに滅ぼされてしまうだろうとの判断から「開国」へと考えを変えた。
上海からは、井上と伊藤は約300トンのペガサス号で出港した。ロンドンまでの旅程は、航海術を学ぶという事で理解されていたので、水夫と同格の扱いで非常に困苦し、日本人を「ジャニー」と呼び軽蔑されていたと感じている。便所は船体から張り出した横木につかまって用をたす方式であったから、嵐の時には身体を縄で縛って危険を保護した。
- 同年5月10日は長州藩は率先して攘夷を実行した日であった。即ち、関門海峡を通過しようとしたアメリカ汽船ベムプローク号(Pembroke)に対して外国船砲撃の第一発を放ち。ついで、5月23日フランス商船(Kien-Chang)号、5月26日オランダ軍艦Medusa号を砲撃
ロンドン到着
11月4日(旧暦9月23日) 井上ら5名はロンドンに到着。
1864年(元治元年)(29歳)
3月 密航者5名は日本発の「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも幕府返答は煮えきらず、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」との報道に驚き、井上と伊藤は直ちに帰国を決意した。
急遽ロンドンからの帰国へ
4月中旬 井上と伊藤はロンドンを発つ。
6月10日頃 2人は横浜に到着した。井上は当時を回想して「国家に対する憂いの思いは、国内に居る時よりも寧ろ海外に在る時が切実なのを覚えた。例えば藩主は今如何に憂慮して居られるだろうか、同志の士は如何に行動しつつあるか、或いは彼らは攘夷の為に戦死したのでは無かろうか、或いは敗戦の結果土地割譲の窮地に陥ったのでは無かろうかなど、、」と言っている。
6月中旬 伊藤と共にガワーに会い急遽帰国した説明をしたところ、ガワーは4カ国が下関を襲撃する計画がある事を告げた。両名は故国の安危に関する大事件と受取り、英国公使館の通訳アーネスト・サトウを介して公使ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock 1809-1897)と会見し自分達が長州藩に帰って藩論を一変したいと説明し、停戦講和を願った。駐日公使は「フランス、アメリカ、オランダの公使と協議して確答するから数日間居留地のホテルに宿泊して待つように、その際長州人と分からないように日本語を使ってはならない」と申し渡された。
- 2人はホテルのボーイ等が「今回ホテルに来たポルトガル人の顔付きは日本人に似ている、ケチで金銭を使わぬには驚いた、金銭を使う道をしらぬのではあろうが、彼等2人の風貌から見てもポルトガル人の中でも最下等の貧乏野郎。」など日本語が分からないものと思って勝手な事を話していた。
- やがて英国公使から連絡があって、他の3国も了解したから国に帰って尽力して欲しいと、藩主あての公使からの書簡を手渡された。書簡に対する返答は到着から12日後と決まった。
6月18日 英国艦にて乗り豊後姫島まで送られる。
6月24日 山口に着き、藩の事情を聞くと、「幾百艘の軍艦が来襲しても死力を尽くして防戦する」という藩の方針が決定しているとの事であった。
6月25日 伊藤と共に藩庁に出頭し、海外の情勢を説き攘夷が無謀なこと、開国の必要性を訴える。攘夷論者を警戒して春山花輔と変名。
6月26日 藩主の下問に応じて伊藤と共にそれぞれ海外の事情を進言。しかし、藩の趨勢から方針転換は困難という。
6月27日 井上と伊藤が希望していた御前会議が開かれる。藩の重役達の前で西洋事情を話しても理解されず、西洋文明を説明しても「ホラを吹くにも程がある」と嘲笑される。攘夷論者からは命を狙われる程の意識のギャップに、井上と伊藤は隔靴掻痒の思いであった。
6月29日 藩主の立場としては、藩士の攘夷熱は抑えがたい状況に到る旨を毛利登人から伝えられる。これに対し、「藩政府員が『防長2州が焦土と化しても天勅を奉じて攘夷を遂行する』とは、その言葉は美しいようであるが1敗の結果、一同討ち死にしても藩主一人残る理由はないからその最後の決心があるか?」を藩主に伝えるよう要請した。
7月2日 藩主より英国軍艦に行き、止戦の為の交渉をするように命ぜられる。
7月5日 伊藤と共に姫島の英国艦に行き攻撃猶予を談判するも成らず。
7月21日 井上は、脱走の罪で萩の実家に幽閉中の高杉晋作を訪問。
8月4日 藩より外国艦との交渉をするように命ぜられ、8月5日井上と前田孫右衛門(1818-1864 甲子殉難十一烈士の一人)とで小船に乗り艦隊に向かう途中約束の時間が過ぎた為イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国の艦隊が下関を砲撃。8月7日には艦隊の兵士2千名が上陸した。
8月8日 講和使節宍戸刑馬(高杉晋作の仮称)に従い伊藤と共に講和使節として英国艦に行くが失敗。:藩では征長の軍に対しても応戦しなければならず、やむを得ず井上や高杉らに外艦の対応を指示したものである。
8月9日 外国兵による大砲の分補に立ち会う。
8月10日 井上は講和使節として毛利登人に従い外国艦に行くが談判ならず。
8月14日 講和使節宍戸刑馬に従い外国艦に行き、講和条約を締結。
英国海軍クーパー提督は長州藩の発砲に対して賠償金を要求したが、「これは朝廷・幕府の命に従った事で我が藩の私意によったものではない。4カ国公使から幕府に請求するのが筋である」として責任転嫁する事が出来た。これは高杉の機転によるものであった。
- 一方で和議に反対する攘夷論者は多く、山口に滞在する公卿(三条実美、四条隆謌、東久世通禧)らは毛利定広に対して抗議し、藩政府員は困って「あれは高杉、井上、伊藤らが藩主を篭絡してやったことで、、」などと逃げ口上もあり、井上は帰国以来命を狙われるのは当然という時期であった。
襲撃に遭い重傷を負う
9月25日 山口藩庁(政事堂)での君前会議が終って午後8時過ぎ、湯田の自宅まで(約2Km)の帰途、袖解(そでとき)橋で襲撃され、重傷を負う。聞多は手まねで介錯を頼んだ為、兄の五郎三郎が刀を振りかざしたところ母がおい被さり「五郎三郎待ってくれ、医者が居るのだからたとえ無理でも傷口を縫い合わせて経過をみたい」と阻止。血と泥で汚れて手のつけようが無かったが、たまたま緒方洪庵で学んだ美濃の国の浪士・所郁太郎が聞きつけて駆けつけていたので、焼酎で傷を洗浄し、小さい畳針で縫合した。傷6箇所で50針を縫合し終わったのは午前2時であった。
- この時の凶漢3名のうち生き残りの1名児玉愛二郎(前の名、児玉七十郎)とは明治30年5月に杉孫七郎が仲介で『児玉が凶漢であった』とあらためて紹介している。他の2名のうち中井栄治郎は萩政府の壊滅にあたって、捕えられ椋梨一派と共に処刑され、周布藤吾は井上の配下として石州口に奮戦したがその時の傷により死亡した。
1865年(慶応元年)(30歳)
1月2日 高杉晋作、奇兵隊を率いて下関新地会所(藩の出先施設)を襲う。井上は奇兵隊の山口鴻城軍総督になる。
藩論の一本化
- 2月22日 長州藩の藩是は一本化し藩主父子による祖先の黄檗宗東光寺墓参をもって新たな時代が始まった。
藩政府は幕府による征長軍に備えて、遊撃隊、奇兵隊、膺懲隊、御楯隊、八幡隊、萩野隊、集義隊、南園隊、鴻城隊を配置、その統括をする人物は高杉晋作との衆議であったが、高杉はこの小康の時期に外遊したいと願い、井上らの働きかけもあって藩政府は高杉と伊藤の2名の洋行を認め、千両を下賜。表面上は「英学修業並びに事情探索の為、横浜に差し遣わす」との辞令であった。しかし、実現に到らなかった。
4月中旬 井上は楊井謙蔵と共に外国人応接掛を命ぜられる。下関開港に尽力していた井上、伊藤、高杉らを暗殺する謀議があり別府に逃げる。
4月22日 外国人応接掛を免ぜられる。
5月及び閏5月上旬 この時期、坂本竜馬(変名才谷梅太郎)、中岡慎太郎(1838-1867 変名石川清之助)が薩摩と長州を結びつける為に、大宰府で5人の公卿等に面談。その折長州藩の小田村素太郎、時田少輔に会い、彼等が下関で桂小五郎、井上、伊藤らに伝えた。更に坂本は5月1日下関に行き、桂は藩主毛利敬親の指示で山口から下関に戻り5月4日に面談。
薩摩藩の名を借りて汽船と小銃を購入
7月16日 井上と伊藤は薩摩藩の名を借りて汽船と小銃購入の為長崎に行く。17日大宰府着、18日三条ら公卿(京都を落延びた5廷臣三条実美、東久世通禧、西三条季知、四条隆謌、)に会う。21日長崎着。28日薩摩藩士小松帯刀(1835-1870)に同伴し鹿児島着。井上は薩船に乗り8月26日長崎で小銃を積込み27日三田尻に到着。