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予定説

予定説とは、ペラギウス主義および半ペラギウス主義を否定するためにアウグスティヌスによって提唱された、「救霊における神からの聖寵の無条件的な必要性」を拡張解釈したもので、主にジャン・カルヴァン(Jean Calvin)によって発展した説。マルティン・ルター(Martin Luther)、ウルリッチ・ツウィングリ(Ulrich Zwingli)らも予定説を認めていたが、カルヴァンの二重予定説とは異なるものとされている。

神の救済は、特定の選ばれた人に限定され、一度救済に与れた者は罪を犯さない、もしくは罪を犯しても必ず赦しに与るとされる。カトリック教会トリエント公会議および東方正教会において、神からの聖寵は救霊に対して無条件に必要であることを認めているが、その聖寵の付与が予定された者に限定されるとする予定説に対しては異端として堅く排斥している。 オランダ改革派のヤコーブス・アルミニウスは特に二重予定説に反対したが、1610年改革派のトルド会議で異端として排斥された。そしてこの会議において「人間の全面的堕落、無条件的選び、限定的贖罪、選びの召命ににおける不可抗的恩恵、聖徒の堅忍」という、カルヴァン主義の五つの特質として定義された。アルミニウスの思想は、後に普遍救済説として発展し、メソジスト・ウェスレー派やジェネラル・バプテストの間で支持される。また、予定説はオランダのカルヴァン派で発展し、救済の予定が人間の堕落の前とする堕落前予定説と、堕落の後とする堕落後予定説との論争が起こるようになる。

聖書との比較

予定説における神は、将来を予告することができるという理由から、神は聖書の中で自分自身を、「終わりのことを初めから、また、まだ行われていなかったことを昔から告げる者。『わたしの計り事は立ち、わたしは自分の喜びとすることをみな行なう』と言う者」と描写していると考える(イザヤ 46:10)。それゆえ神は人間の歴史の初めから、自分が予定し出来事が起きる前にそれを予告する、ということを示すために数々の預言者を通して記録させてきたとする。

聖書からの例として、バビロンの王ベルシャザルの時代に、預言者ダニエルが、2頭の野獣の一方が他方を押しのける夢を見た時、神はダニエルにその夢を解き明かして、「あなたが見た二本の角のある雄羊はメディアとペルシャの王を表している。また、毛深い雄やぎはギリシャの王を表している」と説明された。(ダニエル 8:20,21)明らかに、神は世界強国の興亡を啓示するために予知力を働かせられたのである。当時勢力を振るっていたバビロニア帝国の後にメディア‐ペルシャが興り、またその後にギリシャが興ることになっていた。

また、一個人に関する預言もり、例えば預言者ミカは、メシアがベツレヘムで生まれることを宣言した。(ミカ 5:2)この時もまた、神は予定をした。しかし、この出来事は、メシアを見分けるという特定の目的があって発表された。ゆえに、この事例を根拠に、予定説の教理を敷衍して個々の人に当てはめるのは困難である。

一方、聖書におて、ある状況において神は結果を予定しようとはしないとする明確な個所がある。ソドムとゴモラの滅びる前に神はこう言明する。「わたしは、それについてわたしに達した叫びのとおりに彼らが行動しているのかどうかを見るために下って行こうと決めている。もしそうでないのなら、それも知ることができよう。」(創世記 18:21)この個所は、神は事を調査するまでそれらの都市の堕落の程度を予定していなかったということを示している。

また、「ヨナ書」は、神殿再建以降の行き過ぎた選民主義を批判するために書かれた書物である。この書物の中で次のようなことが記述されている。滅ぼされる予定であったニネベの都の民は、後の回心によって神の意志を変えることができた。そして、この書物の最後は以下のような言葉で締めくくられている。「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ 4:11) カトリック教会のトリエント公会議の予定論排斥するために宣言された言葉によると、「この世に生きている間は天主の救霊予定の深遠な奥義を、すなわち自分が確実に救霊予定者の数の中にはいっていると推定してはならない。」とある。これはヨナ書が訓戒することとまさに一致しており、このことはアウグスチヌスの救霊に関する説明の中でも述べられている。アウグスティヌスは、聖寵の付与において人間の功徳に対して無条件で神の意志のみによると説いたのであって、聖寵の付与や神の意志が予定されるとはまったく説いていない。

予定説において、神は特定の出来事を予定することができるが、多くの場合その能力を行使しなかったと考える。神は全能者なので、自分の能力を不完全な人間の望みどおりにではなく、自分の望むとおりに自由に発揮できるとする。

二重予定説において、神は創造を行う前に人間の堕罪をあらかじめ予定されており、その堕罪以前から「選ばれた者たち」が予定されていると考える。もしそうなれば、神がアダムとイヴは永遠の命を得られないということを十分承知の上で彼らにその見込みを差し伸べるのは、神の良心における矛盾ではないかという推論にも達しうる。さらに、最初の人間夫婦が、神の指示に従って永久に生きるか、それとも神の指示を退けて死ぬか、という選択の機会を与えられたことは、聖書のどこを見ても否定されていないのである。―創世記 2章。 またトルド会議で定義された人間の完全堕落について、使徒 23:1 などで良心を意味するσυνείδεσιςが使用されており、義や聖性が失われたことが即完全堕落という解釈は難しい。





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