Guajara in other languages: Spanish, Deutsch, English, French, Italian ...



弥生時代

弥生時代(やよいじだい)は、一般に北海道を除く日本の紀元前3世紀から3世紀までにあたる時代で、遺物では弥生式土器の使用、生活面では水稲耕作の開始をもって特徴とする。

水田に使用する土地の拡大争いと水争いで集落・村落間の争いが、地域・地方と拡大して国同士の争いとなり、列島規模にまで広がっていった。列島には、北部九州・吉備・山陰・近畿・東海・関東などの勢力圏が出来上がった。これらの勢力圏が統合・同盟の関係を繰り返した。

列島規模の王権の形成過程が、この時代であった。言い換えると、古代国家生成のための戦いの時代であった。また、民衆の間での身分・貧富の差が大きくなった時代でもある。

なお、最近の水稲耕作研究結果などから、弥生時代の成立を500年以上さかのぼらせる説が有力になりつつある。

Table of contents
1 時代区分
2 人々の生活
3 政治
4 関連項目
5 外部リンク

時代区分

弥生という名称は、1884年(明治17)に東京市本郷向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の遺跡(貝塚)で発見された土器が弥生式土器と呼ばれたことに由来する。

弥生時代の始まりをいつの時点とすべきかは、諸説ある。また、弥生土器の出現を時代の始期とするか、水稲農耕の始まりを時代の始期とするかで研究者の間で議論が分かれる。

普通、前期・中期・後期の3期に分けるが、I~Vの5期に分ける方法もある。前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は2世紀頃から3世紀の後半頃まで続いたと考えられている。最近になって、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきた。

人々の生活

水田稲作が、中小河川沿いの低地で、本格的に行われるようになった。はじめのうち農具は木器か石器であった。収穫した稲は高床倉庫に蓄えた。

この時代も、産地が限定されるサヌカイト・玉などの良質な石材料は、各地に広がっている。つまり、品物によっては多量生産、広域流通が行われたと考えられている。しかし、材料が豊富な木材などは、伐採・加工・消費まで村落内で行われたと思われる。

まつりは、家のまつりや村の祭り、クニのまつりがあったであろう。クニのまつりには、青銅祭器の銅鐸や銅剣が使われた。

弥生式土器が使われた。また、青銅器と鉄器が中国大陸から伝えられ、祭具や武器に用いられた。農具は早い時代には石器が使われ、後には鉄器も使われた。

政治

環濠集落と高地性集落 弥生時代は、前代とはうってかわって、集落間の戦争が頻発した時代であった。集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、武器の傷をうけた人骨などが、戦乱の裏づけである。

弥生前期の人骨に胸から腰にかけて十五本の石鏃が打ち込まれていた。このような「英雄」は多くの村にいたらしい。北部九州では、前期から中期にかけて銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。また、額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨も見つかっている。解剖医学者が鑑定しているのであるが、異論も多い。

弥生前期末から中期前半は各地域において可耕地の拡大を求めた時期であり、土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられている。人骨に刺さった弓矢や銅製武器は、近畿弥生人には近畿の武器が北部九州弥生人には北部九州製の武器というように、同じ勢力圏の中での戦いであったと考えられている。また、倭人伝に出てくるクニ相互の戦いが主なものであろうと思われている。

弥生前期末に出現し、中期に成功する環濠集落は、村段階、クニ段階の争いに備えた防衛集落であったと考えられている。

弥生中期後半に中部瀬戸内沿岸から大阪湾にかけて高地性集落が出現する。高地性集落とは、弥生時代の普通の耕作地からみて遙かに高い場所(50~300メートル)に営まれている集落のことである。

環濠集落がほぼ弥生時代全期間を通じて存在するのに対して、高地性集落は勢力圏の違う地域間の戦い、つまり九州勢力と近畿勢力というような、地域勢力圏を越えた政権争いの戦争に備えた要塞である、と推測されている。

時代が下るにつれ、大型集落が小型集落を従え、集落内で首長層が力を持ってきた。首長層は墳丘に葬られるようになった。つまり、身分の差が出てきた。この墳丘が「古墳」といわれる墓に発展していった。

弥生時代は、大体北部九州・吉備・山陰・近畿・三遠(東海)・関東の勢力に分けることができる。時代の進行とともに連合していき、日本一つの勢力が出来ていった、と考えられる。水田農耕発展のための土地の拡大と農具となる鉄の獲得のために戦いが起こり時代が進行していった。近畿では、環濠集落は、弥生前期末に現れ、中期以降に普及した。

倭の女王卑弥呼 中国の史書は、倭人が多数の国に分かれて住んでおり、使節を送ってくると記す。そのうちの奴国は紀元前57年に後漢の光武帝から金印を授かった。いわゆる「魏志倭人伝」は、3世紀邪馬台国について詳しく記し、卑弥呼という女王が統治したことなどを伝える。

関連項目

外部リンク


縄文時代弥生時代古墳時代


この記事は 書きかけです。この記事を直して下さる協力者を求めています。




Wikipedia - All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.

Tagoror dot com  -  Legal Information  -  Contact us