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八王の乱

八王の乱とは、の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱のことである。 こののち中国は、が統一するまでのおよそ 300 年にわたり、動乱の時代となる、

Table of contents
1 八王
2 「八王の乱」の経過
3 「八王の乱」後

八王

  • 汝南王司馬亮
  • 楚王司馬
  • 趙王司馬王倫
  • 斉王司馬冏
  • 長沙王司馬乂
  • 成都王司馬穎
  • 河間王司馬
  • 東海王司馬越

「八王の乱」の経過

発端

晋の初代皇帝である武帝の死後、彼の息子である恵帝が即位する。恵帝は暗愚な帝王 であり、政治は武帝の皇后楊氏の一族が牛耳ることになる。

恵帝の皇后である賈氏は、楊氏を朝廷から追放し、自らが実権を握るべく画策をはじめる。
やがて賈氏は、巨大な武力を有していた恵帝の弟である楚王司馬と協力し、
洛陽の楊氏を皆殺しにした。

皇后の天下

楊氏を朝廷から追放した賈氏は、政権を恵帝の叔父である徐南王司馬亮に託すが、司馬亮は賈氏の思惑通り政権を運営することができなかった。失望した賈氏は、恵帝の密勅により司馬に司馬亮を攻撃させ、追いつめられた司馬亮は自殺をする。
その一方で、司馬を司馬亮殺害の罪で殺害させ、自らの地位を安定させていった。

恵帝には、他の夫人との間に皇太子司馬橘がいた。
賈氏は、司馬橘の才能に危機感を感じていた。事実、武帝は恵帝が暗愚であることを危惧していたが、孫の司馬橘の才能を認め、恵帝の皇位継承を認めたほどであった。
賈氏は、一向に子宝に恵まれない恵帝との仲をあきらめ、洛陽の美少年をさらってきては夜の相手を務めさせ、用がすめば殺していくようになる。

一方、賈氏の野心に気づいた司馬橘は自らを守るため、暗愚を装った。模擬店を宮中に開くなどしていた司馬橘であったが、賈氏により、謀反の疑いをかけられ、廃立されてしまう。

乱立

300年、廃立された司馬橘は、賈氏によって殺害されてしまう。
恵帝の叔父(司馬亮の弟)である趙王司馬倫は、恵帝の従弟にあたる斉王司馬冏と協力し、恵帝の詔勅を偽造し、決起する。
皇太子殺害の罪を問われた賈氏は、一族とともに殺された。

301年、司馬倫は、恵帝を幽閉し、自ら即位する。
しかし、司馬倫に権力が集中したことに不満な司馬冏は、恵帝の弟である長沙王司馬乂、成都王司馬穎、そして、司馬懿の甥にあたる河間王司馬を洛陽に集め、司馬倫を殺害する。

恵帝を復位させた司馬冏は、やがて政治の実権を自らに集中させ、恵帝の皇太子も独断で決定した。
これに対し、司馬乂、司馬穎、司馬は再び決起、司馬冏を殺害したが、司馬冏の後任を誰にするかで仲間割れをおこす。ついには、司馬乂が、司馬穎、司馬に攻め滅ぼされてしまう。

やがて、司馬穎が皇太弟、丞相として、政治を司るようになるが、洛陽にとどまることを危険と考えた司馬穎は、司馬の部下、張方に洛陽を統治させた。

次第に司馬穎が勝手に政治を行うようになり、それに対し、今度は司馬一族の東海王司馬越と恵帝の末弟である予章王司馬熾が反旗を翻す。
一旦は司馬穎に敗れた彼らであったが、匈奴や鮮卑などの異民族を傭兵に雇い、やがて司馬穎を皇太弟の座から追い払った。

洛陽を守護していた張方と司馬を攻めた司馬越であったが、司馬が講和を申し込み収束する。
司馬穎を殺した司馬越は、306年に死去した恵帝のあとに司馬熾を懐帝として即位させ、自らはその補佐を行った。

賈氏による楊氏追放に端を発した八王の乱はこのように終結する。

「八王の乱」後

八王の乱の際、諸王は異民族の傭兵を戦場に投入した。
一見磐石に思えた晋の弱体化は、内乱に参加した異民族に独立への野心を与えることとなる。 やがて、それは304年の漢(前趙)の建国へとつながり、中国全土を巻き込む内乱へと発展していった。




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