帝皇日継・帝紀とほぼ同様の内容であったと考えられており、天皇家の系譜を記したものだと考えられている。また、未完であった可能性が高い。
国記とともに編纂された。また、皇極4年(645年)の乙巳の変の際に、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷の家が燃やされ、そのとき国記とともに焼失した。