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勝 海舟(かつ かいしゅう、文政六年一月三十日(1823年3月12日)-1899年(明治32年)1月21日)は、江戸時代末の幕臣、政治家。戊辰戦争において、徹底抗戦派を抑え、官軍に降伏し江戸城無血開城を果たした。
幼名麟太郎(りんたろう)、本名勝 義邦 (かつ よしくに)のち改名して勝 安芳(かつ やすよし)。安房守であったことから勝 安房(かつ あわ)と言う通称がある。海舟は号である
生家は下級旗本。島田虎之助に剣術と禅を学ぶ一方で、江戸で有名な蘭学者であった箕作阮甫に弟子入りを希望するも却下される。結局、赤坂溜池の黒田藩屋敷内に住んでいた永井青崖に弟子入りして、これを切っ掛けとして住居を本所から赤坂氷川に移し、終生の住処とする。
幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁・初代の東京府知事)の知遇を得たことから出世の糸口を掴み、長崎の海軍伝習所に入門する。伝習所では勝は成績が悪く、3度落第した。 1860年には、咸臨丸で渡米した。 このとき勝は船酔いが激しく、航海中はほとんど船長室にこもりきりで、実際の航海の支持は同船した外国人乗組員に任せきりであったと伝えられる。
帰国後は一時、勝は航海術の信用を失い幕府海軍から干されて、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等をまわっていたが、任官運動が功をそうして海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。この間、神戸海軍操練所では子飼いの坂本龍馬らを教えたとされる。
軍艦奉行を罷免され再度海軍から追放されるも立ち回りがうまく1866年に再任した。 徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。戊辰戦争時には陸軍総裁として追討軍を指揮すべき立場にあったが、官軍が江戸に迫ると徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。単身官軍側のかねてから親しかった西郷隆盛と交渉し、江戸市中を戦火から救ったとされる。
晩年は悠悠自適の生活を送りながらも、朝敵とされた慶喜の赦免に力を尽くした。回想録として『氷川清話』がある。
脳溢血により、1899年1月19日に意識不明となり、21日に亡くなった。
勝の評価は、さまざまに分かれるが、幕末維新の激動の流れの中で、己の野心を実現させるために運動し、幕臣最高の地位まで上り詰めた強運は否定できない。