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任那

任那みまなにんな)は古代に存在したとされる朝鮮半島の地域。かつては任那日本府の支配下にあったとされていた。しかし近年の歴史学では否定的な言説が支配的である。

Table of contents
1 中国史料における任那
2 朝鮮史料における任那
3 日本史料における任那
4 東アジア情勢から見た任那の興起
5 中国史料と日本史料の統合による任那の滅亡
6 関連項目

中国史料における任那

日本書紀720年成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高い。)

これらから、中国史料における「任那」は、 と総括できる。

朝鮮史料における任那

このことから、924年頃までは、「任那」に関する史料、あるいは記憶が残っていたが、12世紀に『三国史記』が編纂される頃には、「任那」に関する史料が、ほとんど全く失われていたことが示唆される。

日本史料における任那

日本史料が最も豊富な情報を提供してくれるので、これらの批判的活用が肝要である。

東アジア情勢から見た任那の興起

に続く代になり、290年頃八王の乱が起きて中原が乱れると、慕容氏が強勢になり、遼東と遼西に進出し楽浪・帯方両郡は中原との陸路の連絡を絶たれ弱体化し、313年高句麗により楽浪郡が、引き続き帯方郡が滅亡した。346年前燕(慕容氏)による高句麗の一時的壊滅と、さらに357年前燕の中原進出に伴う高句麗の再起と、朝鮮半島南部への政治的圧力関係は、めまぐるしく情勢が変化した。この間に朝鮮半島南部の政治状況は一気に流動化したと考えられ、魏代の弁辰(弁韓)諸国は任那に再編成されたと推測される。一つの仮説ではあるが、その時期は320年~350年、しぼってみると345年~355年頃ではないかと考えられる。

中国史料と日本史料の統合による任那の滅亡

  • 『日本書紀』512年条に「任那四県」の百済への割譲が記載され、
  • 『梁職貢図』525年頃にはすでに「任那」の記載はない。

これを総合すると「任那」は512年~525年に滅亡したと考えられる。 この後『日本書紀』には、「任那復興」と記されていることも、これを傍証する。

関連項目





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