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| Table of contents |
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2 朝鮮史料における任那 3 日本史料における任那 4 東アジア情勢から見た任那の興起 5 中国史料と日本史料の統合による任那の滅亡 6 関連項目 |
中国史料における任那
(日本書紀(720年成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高い。)
魏に続く晋代になり、290年頃八王の乱が起きて中原が乱れると、慕容氏が強勢になり、遼東と遼西に進出し楽浪・帯方両郡は中原との陸路の連絡を絶たれ弱体化し、313年高句麗により楽浪郡が、引き続き帯方郡が滅亡した。346年前燕(慕容氏)による高句麗の一時的壊滅と、さらに357年前燕の中原進出に伴う高句麗の再起と、朝鮮半島南部への政治的圧力関係は、めまぐるしく情勢が変化した。この間に朝鮮半島南部の政治状況は一気に流動化したと考えられ、魏代の弁辰(弁韓)諸国は任那に再編成されたと推測される。一つの仮説ではあるが、その時期は320年~350年、しぼってみると345年~355年頃ではないかと考えられる。
日本史料における任那
日本史料が最も豊富な情報を提供してくれるので、これらの批判的活用が肝要である。
東アジア情勢から見た任那の興起
中国史料と日本史料の統合による任那の滅亡
これを総合すると「任那」は512年~525年に滅亡したと考えられる。
この後『日本書紀』には、「任那復興」と記されていることも、これを傍証する。