|
|
| Table of contents |
|
2 遣隋使の上表文 3 遣唐使の上表文 4 文字の摂取について |
倭の五王の上表文
倭王武(わおうぶ)は、宋の昇明2(478年)年5月、宋の皇帝順帝(じゅんてい)に上表文を奉っている。
遣隋使の上表文
第1回遣隋使は、600年(推古8)に小野妹子(おののいもこ)が派遣された。『隋書』にみえるが、『日本書紀』には記されていないのは、この時期はまだ、日本は外交儀礼に疎く、中国と外交交渉をしたほどでなかったので、『日本書紀』の編纂者が書かなかったのであろう。因みに、『隋書』の著者は、魏徴(ぎちょう ?- 643)。643年は、唐の太宗貞観17年。
第2回目遣隋使として、小野妹子が任命された。推古天皇の摂政であった聖徳太子が、隋の皇帝煬帝(ようだい)に奉った有名な国書(上表文)は次の通りである。
これに対して、煬帝が倭王に宛てた国書は、
遣唐使の上表文
第1回遣唐使には、630年(舒明2)犬上御田鋤(いぬかみのみたすき)が遣わされた。
中国は、この国号変更のことを『旧唐書(くとうしょ)』『新唐書』にのせている。(→倭)
文字の摂取について
中国では紀元前1000年も前に文字が発明され、使われていた。弥生時代にも、中国王朝とのやりとりは文字で書かれた国書・上表文で行われていた。また、下賜された銅鏡や輸入した銅鏡には吉祥文が書かれていた。古墳時代にも倭の五王が中国王朝に上表文を奉っている。日本の官人は、古い時代から文字に接していたにもかかわらず、何故か文字を使用しなかった。文字を書くのは、渡来人であった。日本では、7世紀の初め頃から文字を使うようになった。中国の国書・上表文に接していた弥生時代の中央役人は文字の大切さが分かっていなかった。日本人が、中央・地方の役人が自由に文字を書けるようになったは7世紀に入ってからのことである。何世紀もの間、日本人は、文字を使わなかった。言葉で伝えた。渡来系の人が文字を書いた。
邪馬台国では文字(漢字)を用いる技術は低く、魏との通交は朝鮮半島にあった中国の出先機関ともいうべき帯方郡(たいほうぐん)を介して行われていた。そのため邪馬台国側の国家意志は、そうした機関を通して伝えられた可能性もある。その当否はともかく、文書で国家意志の伝達を求められた卑弥呼は、『魏志』倭人伝正始元年(240)条の記事にみえるように、魏使に対して、下の者が上奏する際に用いる中国の文書形式である「表」を授けて先の詔書に感謝する気持ちを伝えている。
鉄剣・鉄刀銘文に書かれていた表記法は、稲荷山鉄剣銘や江田船山大刀銘が両刀とも固有名詞を音仮名で表記しているが、岡田山一号墳の大刀銘にはヌカタを字訓で額田と表現している。先の両刀と比べて、表記法はかなり後世のものであると思われる。一般的に漢字の正訓が定着し、それが固有名表現に使用されるまでには相当の日時を要したことであろう。さらに、この銘文では、額田の一部を省略して「各田」と表現されている。各田の字をみてすぐにヌカタと読むことができるようになっていたのであろう。このようなことから、ほぼ6世中葉から後葉にかけての製作であると考えられる。つまり、仏教が伝来し、その興隆に力を注いでいた時代の製作である。しかし、この時代の文字の記録が皆無と言っていいほど知られていない。日本人が自由に文字を読み書きできるようになったのはやはり7世紀に入ってだろうか。
555年(欽明16)「史(ふひと)」姓者の存在は、単に文筆を以て朝廷に仕えていたというだけではなく、各地域における文書行政の萌芽を示すものと推測できる。
7世紀にはまだ政治は基本的には口頭で行われていた。文書に優先して口頭による政務が存在した。口頭による政務の伝統があった。知識人による言語と文字の扱いはどのようになっていたのか。