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会津はもともと戦国大名葦名氏がいたが伊達政宗によって滅ぼされ、さらに豊臣秀吉によって政宗から没収されて蒲生氏郷に与えられた(91万石)。氏郷の死後、越後から上杉景勝が入り(120万石)、関ヶ原の戦いの後、米沢転封(30万石)。蒲生氏が再び入封(60万石)するも、1627年断絶。かわって伊予松山藩から加藤嘉明が40万石で入るが、二代明成が家中騒動の末、領地返上を願い出て改易。会津は中央政権が東北を抑えるための要地であるために、藩主が頻繁に変えられた。
しかし、加藤氏改易の1643年に、出羽国山形藩にあった、徳川秀忠の子の保科正之が23万石で入って、以後保科氏の子孫が治めた。保科正之は、将軍徳川家光の異母弟として、家光の信頼を受けて幕政に重きをなした。保科氏は三代正容(正之の子)のとき松平氏に改姓し、徳川将軍家親族の名門として名実ともに認められるようになった。
最後の藩主となった九代容保は八代容敬の女婿となって美濃国高須藩の高須松平家から養子に入った。容保は幕末に京都守護職となり、大政奉還後の戊辰戦争において旧幕府勢力の中心と見なされて新政府軍の標的となった。
1868年、会津藩は会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北し、会津藩領は会津松平家から没収。会津藩は廃藩置県を前に若松県とされ、さらに福島県に併合された。
1869年、容保の嫡男容大に家名存続が許され、改めて斗南藩3万石(現在の青森県むつ市)を与えられた。斗南は開墾するには過酷な土地で、会津藩士の多くが無残な死を遂げたという。