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お陰参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これがお陰参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。幕藩は規制を敷いたが、効果は無かった。
流行時にはおおむね本州、四国、九州の全域に広がったが、真宗地域には広まりにくかった傾向がある。
死人が生き返ったなど、他の巡礼にも付き物の説話は数多くあるが、巡礼を拒んだ真宗教徒が神罰を受ける話がまま見られる。一番多いのは、おふだふりである。村の家々に神宮大麻(お札)が天から降ってきたと言う。これは伊勢信仰を民衆に布教した御師がばら撒いたものだともいわれる。
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2 変遷 |
街道の関所が天下統一により撤廃され、参詣への障害が取り除かれた。また江戸時代には五街道を初めとする交通網が発達し、参詣が以前より容易となった。世の中が落ち着いたため、巡礼の目的は来世の救済から現世利益が中心となり、観光の目的も含むようになった。
1718年(享保3年)
1723年(享保8年)
ピーク時には地元松坂では、自分の家から道路を横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が町の中を通っていった、と当時の日記にかかれている。
参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いてきた。集団ごとに幟を立てていたが、初めは幟に出身地や参加者を書いていたが、段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えてきたという。お囃子も、老若男女がそろって卑猥な事々を並べ立てるようなものになった。
街道沿いの物価が高騰した。白米1升が50文が相場のときに、4/18には58文に上がり、5/19には66文、6/19には70文まではね上がった。わらじは5/3で8文だったものが、5/7には13-15文になり、5/9には18-24文に急上昇した。
街道沿いの富豪による「施行」もさかんに行なわれた。無一文で出かけた子供が、銀を持って帰ってきたといった事もあったという。初めは与える方も宗教的な思いもあって寄付をしていたが、徐々にもらう方ももらって当然と考えるようになり感謝もしなくなって、中にはただ金をもらう目的で参詣に加わる者の出てきた。
何故か参詣するときに、ひしゃくをもっていって伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。阿波の巡礼の風習が広まったとも言う。
物価上昇が起こり、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されている。
背景
中世には、現世に失望し来世の幸福を願い沢山の人々が寺院へ巡礼した。やがて、神社にも巡礼がさかんになった。変遷
中世
お陰参りの前段階として、集団参詣が数回見られる。前期
1650年(慶安3年)
慶安のお陰参りは、記録が少なく、詳しいことはわかっていない。「寛明日記」によると、江戸の商人が流行らせたと言う。箱根の関での調べによると、正月下旬から3月上旬までで一日平均500-600人が参詣し、3月中旬から5月までで平均2100人が参詣したという。参詣するものは皆「白衣」を着ていた。
1705年(宝永2年)
宝永のお陰参りは、本格的なお陰参りの始まりで、2ヶ月間に330万~370万人が伊勢神宮に参詣した。中期
1771年(明和8年)
4月11日、宇治から女・子供ばかりの集団が仕事場の茶山から無断ではなれて、着の身着のままやってきたのが明和のお陰参りの始まりと伝える。後期
1830年(文政13年 / 天保1年)
文政のお陰参りでは、60年周期の「おかげ年」が意識されていた。伝播地域は、明和よりも狭かったが、参加人数は大幅に増えている。末期
1867年(慶応33年)
ええじゃないか。厳密にはお陰参りには入らないがお陰参りの影響を受けている。ええじゃないかを参照。
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