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円谷英二

円谷英二 (つぶらや・えいじ, 1901年(明治34年)7月10日 - 1970年(昭和45年)1月25日)は、福島県須賀川市生まれの映画監督
本名:円谷英一。日本の特撮映画の草分的存在である。

Table of contents
1 略歴
2 作品
3 オフィシャルサイト

略歴

天然色活動写真株式会社の枝正義郎に出会い、映画界に入る。
徴兵による兵役の後、衣笠貞之助、杉山公平らの衣笠映画連盟設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属。 『稚児の剣法』(監督:犬塚稔、主演:林長二郎)でカメラマンとしてデビューする。
このころ、撮影映画は
時代劇であったが、セットの奥行を出すために背景画を作ったり、ミニチュアセットを作るなど後の特撮技術に通じることを行なっている。 その後、犬塚稔とともに日活に移籍。
アメリカ映画なども熱心に鑑賞し、映画『キングコング』を見たのもこの頃である。

技術的な問題で日活の幹部と対立、東宝の前身であるJOに移る。
昭和10年2月~8月、連合艦隊の練習鑑「浅間」に乗艦、長編記録映画『赤道を越えて』を撮影。これが監督第1作となった。また、ナチスドイツの宣伝相ゲッベルスの指示で製作された『新しき土』では、スクリーンプロセスの技術を使用し、山岳映画の巨匠として知られたアーノルド・ファンク監督を唸らせた。

昭和12年、JOが、別会社と合併して、東宝が設立された際、東宝東京撮影所の特殊技術課課長に異動し、東京に移る。

日本が戦争に突入すると、当時の統制もあって、戦争映画を中心とした国策映画を撮るようになる。『海軍爆撃隊』で初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影。『燃ゆる大空』、『南海の花束』など特撮が重要な役目を果たす映画を製作。特撮を用いなかったものとしては『皇道日本』などが知られる。

昭和16年、大東亜戦争が始まった後は、昭和17年製作の『ハワイ・マレー沖海戦』。『加藤隼戦闘隊』、『雷撃隊出動』『あの旗を撃て』などの映画で特殊な撮影法やミニチュアの使用や合成技術など、この時期に特撮技術を駆使した。『ハワイ・マレー沖海戦』はそれを戦後見たアメリカ軍が実写と間違えたほどの出来栄えだった。

戦後の公職追放によって東宝を離れ、円谷特殊技術研究所を設立、大映などの映画の特撮部門を請け負った。
その後、占領終了後の公職追放解除で東宝に戻り『太平洋の鷲』を本多猪四郎監督とともに作りあげた。

1954年(昭和29年)11月3日、アメリカのSF映画を参考にした『ゴジラ』の公開により一躍脚光をあびた。その後は、『大怪獣バラン』『モスラ』『ゴジラ対キングコング』などの娯楽怪獣映画の特撮技術を監督した。

昭和38年、株式会社円谷特技プロダクションを設立、日活映画『太平洋ひとりぼっち』の嵐の部分を製作。その後は、TBSで『ウルトラQ』、『ウルトラマン』などを製作、「特撮の神様」とまで呼ばれるようになった。

子供にサインを求められると、自分の名前を図案化した「スキーボーヤ」を描き、大人には「子供に夢を」と書いた。

1970年1月25日狭心症により多くの人に惜しまれながらこの世を去った。

作品

オフィシャルサイト

http://www.eiji-tsuburaya.gr.jp/

関連:日本映画





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