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与謝野 晶子(よさの あきこ、與謝野晶子とも。1878年12月7日 - 1942年5月29日)は明治時代から昭和時代にかけて活躍した作家、歌人、女性解放思想家、フェミニスト。
大阪府堺市の生まれ。情熱的な作品が多い歌集『みだれ髪』(1901年)や日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。
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2 作品 3 関連映画 4 著作・文献 5 外部へのリンク |
旧姓は鳳(ほう)。戸籍名は志よう。ペンネームの「晶」は「志よう(しょう)」から取った。堺の老舗(しにせ)和菓子(羊羹)屋「駿河屋」の父・鳳宗七、母・津祢の3女。『源氏物語』など古典に親しむ女学生であったが、堺女学校を出て、20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。1900年に歌人・与謝野鉄幹(戸籍名は寛)が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年、家を出、東京に移り、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかったこの時代に、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行し浪漫派の歌人としてのスタイルを確立。伝統的歌壇からは反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的な支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。そして与謝野鉄幹と結婚。
1904年、弟の徴兵を理不尽だという内容を表現した『君死にたまうことなかれ』を『明星』に発表。とくにその三連目で「すめらみことは戦いに/おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、現代でも右翼を逆上させて襲撃されかねない表現だったため、忠君愛国の日露戦争下、世間からは反戦思想、危険思想だと激しく非難を受けたが「歌はまことの心を歌うもの」とにべもなく一蹴し、動じることはなかった。
1911年には史上初の女性文芸誌『青鞜』発刊に参加、『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、後世に名を残すことになる。
反良妻賢母主義を危険思想だと見る文部省は取り締まりを強化するが、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、平塚らいてうを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張する。ここで論壇に登場した女性解放思想家山川菊栄は、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと整理した。文部省の意向とは全く違う次元で論争は終始したのであった(現代でも問題になっているアグネス論争参照)。
羽仁もと子による自由学園の開校と前後して文化学院の創立に尽力class="external">[1プロフィール
子だくさんだったが、夫の収入はまったくあてにならず孤軍奮闘。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。墓は多磨霊園にある(外部へのリンク参照)。
元通商産業大臣・元文部大臣の自民党衆議院議員、与謝野馨は、孫にあたる(東京1区)。[1]
作品
君死にたもうことなかれ
産屋なるわが枕辺……
『東京朝日新聞』1911年3月。『青海波』(晶子第十歌集)より。
幸徳秋水事件(大逆事件)による報せを聞いて詠んだ。
そぞろごと
関連映画
著作・文献
自著
関連文献
児童・子ども向け
外部へのリンク
オンライン・テクスト
施設・団体など