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| Table of contents |
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2 略歴 3 諡号・追号・異名 4 在位中の元号 5 陵墓・霊廟 6 関連事項 |
系譜
大覚寺統の後宇多天皇の子
略歴
。白河上皇以来続いていた院政を廃止し、さらに鎌倉幕府を打倒し、建武の新政を始めた。しかし、何の功もなかった公家を重んじ、手柄を立てた武士を軽んずるなど、現実とかけ離れた政治を行ったため武士の支持を失い、足利尊氏に離反された。このため京都を追われ吉野に南朝をひらいた。後醍醐天皇は北朝を倒して京都に戻るべく努力したが、結局帰ることはできなかった。
醍醐天皇の治世は延喜の治と称され天皇親政の時代とされたため、後醍醐天皇は醍醐天皇を尊敬し、天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、彼にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。これを遺諡といい、以後はしばしば見受けられる。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる。)。
陵墓は奈良県吉野郡吉野町吉野山にある如意輪寺内の円墳の塔尾陵(とうのおのみささぎ)である。通常天皇陵は南面しているものだというが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。
明治22年(1889年)に建てられた吉野神宮に後醍醐天皇が祀られている。
また全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。諡号・追号・異名
在位中の元号
陵墓・霊廟