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縄文時代

縄文時代じょうもんじだい)の名称は、エドワード・S・モース(Edward S.Morse 1838-1925)が大森貝塚発掘の際発見した土器を、「縄の紋様のある土器」(Code Marked Pottery)と呼んだことに由来する。これを索紋土器と和訳して、縄紋土器と改め、今日の縄文土器と続いている。

石器・土器づくりや環状石籬・大木柱建物などにみられるように人びとが協力し合って作り上げた時代である。つまり、協力・共同の社会・時代であったといえる。

Table of contents
1 時代区分
2 縄文人のくらし
3 縄文から弥生へ
4 縄文時代の主なできごと
5 関連項目
6 外部リンク
7 人名(モース、山内)

時代区分

縄文時代は、日本において、今から約1万3000年前ないし1万年前から紀元前3世紀までの約1万1000年~約8000年間である。

縄文土器の変化によって、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。土器の文様は多種多様で、時代差や地域差を識別する基準になる。

「草創期」とは、山内清男(やまのうちすがお)が提唱した時代区分である。それまで慣用されてきた前・中・後の三期に早・晩の二期を補い、全体を5期に区分することを提案した。この5期区分が今日、縄文時代の時期区分として広く採用されている。さらに、撚糸文(よりいともん)系土器より古い土器を一括して、「草創期」という時期を設定して、全体を6期に区分することを提案した。今日に至っている。

草創期 寒冷な気候の再来した約1万3000年から1万年前が草創期にほぼ相当し、すぐに温暖化に向かい、早期を迎えることになる。(→晩氷期)
この期の特徴の一つは、新しい道具が短期間に数多く出現したが、短期間のうちに消滅した、ことである。また、この期の前半は、遺跡によって出土する石器群の種類が違っている。それらのことは、急激な気候の変化に伴う厳しい環境の変化に、列島の旧石器人が対応し、適応していったことの証拠である。

急激な環境の変化に伴って、森林も落葉広葉樹と照葉樹へと遷ってゆき、動物相も変化した。(→シカやイノシシ)温暖化は、また、海水面を上昇させ、海が陸地に進入してきて、各地の沿岸に遠浅の砂泥質の入り江が作り出された。(→海進)このような環境が、貝類の棲息、魚類の産卵・餌場の格好の場所となった。(→貝塚

このような環境に対応した道具を開発し、技術を確立した草創期こそ、旧石器時代から縄文時代への移行期であり、縄文文化を成立させるための準備期間であったと考えられている。この期の遺跡から、竪穴住居跡や新しく生活用具として開発された植物質食料の製粉具の石皿と磨石(すりいし)が発見されている。旧石器時代の採集・狩猟を中心とした活動から植物採集・狩猟・漁労活動へと飛躍的に生活を発展させた時期でもあった。

縄文人のくらし

遺物としては煮沸器具である縄文式土器が、住居は竪穴式(たてあなしき)が多くみつかっており、集落を構成していた。縄文時代を代表する狩猟具は、弓矢である。矢の先端には、石の鏃として石鏃が使われた。弓・弦・矢柄とも植物が使われている。縄文人は盛んに弓矢を使って狩猟活動をしていた。

また、石器の産地の考察から、縄文時代にも海洋を越える交易があったことも分かってきている。また、死者を埋葬した跡があることから、縄文の人々には初期の宗教観があったことも確認されている。

従来の歴史書では縄文時代は、人々は主に植物採取・狩猟や漁労をして、少人数の集団が移動をしながら暮らしていた素朴な時代と考えられていたが、近年の考古学上の発見により、縄文時代観が大幅に塗り替えられつつある。

例えば、1992年から発掘が始まった青森県青森市の三内丸山遺跡の調査により、長期間にわたって定住生活をしていたことや、クリ、ヒョウタン、ゴボウマメなどを栽培していたことがわかっている。三内丸山遺跡を象徴する巨大木造建築物も発見された。

縄文から弥生へ

稲作のはじまり 現在ではプラント・オパールの研究により、縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。

イネの品種には、ジャポニカ(日本型)・ジャバニカ(ジャワ型)とインディカ(インド型)があり、ジャポニカは更に、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカに分かれる。
温帯ジャポニカは、中国の長江北側から朝鮮半島、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。弥生時代以降の水稲も温帯ジャポニカであるという。熱帯ジャポニカは、インディカの分布と重なりながら、更に広い範囲に分布し、陸稲と密接に結びついているのが特徴であるという。

温帯ジャポニカが、半島を通って列島に伝播する以前に、熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播したという。水稲農耕の始まりとなったのはどちらか、今後の研究に待たねばならない。

縄文終期と弥生の始期 水稲農耕が行われていた状態の認識の仕方で、研究者の間で議論があり、縄文時代の終期と弥生時代の始期が変わるかも知れない。また、中期についても国立歴史民俗博物館の研究者が土器の年代を測定し直し、約5500年前~約4500年前ではという研究発表があり、縄文・弥生の両時代の年代が変わる可能性が出てきた。

縄文時代の主なできごと

区分 主なできごと
草創期
約13000年前~約年10000年前
貝塚 晩氷期の気候は、短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であった。気温2度ほど低い。海水面30メートルほど低い。竪穴住居址からサケの顎骨発見。最古の夏島貝塚。小型の骨製U字型釣針。先刈(まずかり)貝塚。局部磨製石斧がつくられる。女性像を線刻した小礫つくられる。呪術的なものか?槍・弓矢の製作・使用。狩猟とともに漁労が活発化し貝塚がつくられはじめる。縄文・撚糸文の尖底土器つくられる。
早期
約1万~6000年前
貝塚 海水面高さ戻る。小型の土偶つくられる。数個の竪穴住居で一集落を構成する。組み合わせ式釣り針。網用の土錘・石錘。ヤス、銛。犬を人と一緒に埋葬する。屈葬。
前期
約6000年~50000年前
貝塚 平底土器が一般化する。竪穴住居が広場を囲んで集落をつくる。気候温暖で海面・気温上昇(縄文海進、海水面4~5メートル高くなる)のため、現在の内陸部に貝塚つくられる。湖沼の発達により丸木船がつくられる。漁労活動開始。常緑照葉樹と落葉照葉樹。木器・土器・櫛などに漆を塗ることが始まる。環状列石がつくられる。耳飾り・勾玉・管玉などの装身具がつくられる。立石列(りつせきれつ)環状石籬
中期
約5000年~4000年前
貝塚 立体的文様のある大型土器が流行する。集落の規模が大きくなる植物の栽培をうかがわせる。海岸線ほぼ現在に近くなる。大型貝塚形成。石棒・土偶などの呪物が盛んにつくられる。石柱祭壇。抜歯の風習が始まる。気温低下始める。
後期
約4000年~3000年前
貝塚 交易目的の漁労民発生。大型貝塚。製塩土器。製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団。伸展葬。大湯環状列石(日時計)、東北地方に集中。ウッドサークル(巨大木柱遺跡)。敷石住居址
晩期
約3000年~2300年前
貝塚 漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花。木製の太刀。頭部外科手術か?夜臼式土器。北九州・近畿でも縄文水田。気温2度前後低下。海面も低下。漁労活動壊滅的打撃受ける。

関連項目

外部リンク

人名(モース、山内)

【モース】 ◇Edward Sylvester Morse
○[人]アメリカの動物学者 (1838~1925)。
 1877(明治10)御雇(オヤトイ)外人教師として東京大学に招かれ来 日。2年間、動物学・生物学を講じ、日本で始めてダーウィン の進化論を紹介。
 江の島臨海実験所を設立。大森貝塚など各地の古墳の発掘・ 研究など、日本の生物学考古学・人類学の発展に大きく貢献す る。
 著書は『大森介墟古物篇』・『日本人の家庭と環境』・『日 本その日その日』など。
 「モールス」とも呼ぶ。
 参照⇒おおもりかいづか(大森貝塚)
<私立PDD図書館 より>

やまのうち すがお《やまのうち すがを》
山内 清男
1902(明治35)
1970(昭和45)
◇考古学者。東京生れ。
 東京大学卒業。東京大学講師、成城大学教授。
 縄文土器の型式の細分類・研究によって編年を完成。また、 土器の縄文のつけ方も解明。
 著書は『日本遠古の文化』・『日本先史土器図譜』など。
<私立PDD図書館 より>


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