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皇帝(こうてい、Imperator: Emperor, Caesar)は、君主の称号の一種である。
ふつうの国の上に立ち、多数の国々と諸民族を支配するという意味があり、皇帝の支配する国を帝国、皇帝を戴く君主政体を帝政と呼び、世襲の場合が多い。しかし以上の諸点にはそれぞれ無視できない例外がある。
現代の日本語では、皇帝とは、東アジアで使われていた秦の始皇帝を起源とするものと、ヨーロッパで使われていた古代ローマのインペラートル、カエサルを起源とするのものとの二つ、及びこれと同等とみなされるものを指す。何を同等とみなすかは時代により論者により異なる。日本でもヨーロッパでも、歴史学者が皇帝・帝国という言葉をあちこちで用いた時期があるが、2003年現在、歴史学者は「皇帝」を出し惜しみする傾向にある。
| Table of contents |
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2 ヨーロッパの皇帝 3 その他の地域の皇帝 4 天皇あるいは大日本帝国皇帝 5 皇帝の一覧の一覧 6 関連項目 |
「皇」という漢字は、「自」(はじめ)と「王」の合字であり、人類最初の王を意味している中国の伝説で一番最初に中国を支配したのは、三皇であるとされている。また、「帝」という漢字は、元来、三本の線を中央で束ねるという意味(現代では、この意味で用いる時は、糸偏をつけた「締」と表記する。)である。ここから、宇宙の全てを束ねる至上神という意味で「帝」が用いられるようになった。至上神という意味での「帝」は殷人が用いたものである。殷人は、祖先や太陽・月・山河などを神としてあがめており、これらの神々の内、最高位にあるものを「帝」あるいは「上帝」と呼んだ。殷の支配者は、亀卜で、「帝」の意志を知り、その意志に基づいた神権政治を行った。後に、至上神という意味での「帝」から受託されて人間界を支配している支配者のことも「帝」と呼ばれるようになった。
史記等の伝統的な中国史の書物によれば、中国の君主の称号は次のようであった。五帝・夏・殷の君主は、皆「帝」と名乗った。「帝」はこの世に1人しかいない至尊の称号であった。周が殷を滅ぼした後、周の君主は「王」と名乗った。「王」もまたこの世に1人しかいない至尊の称号であった。しかし、周王朝が衰えると、南方の楚が、自国の君主の称号として「王」を使うようになり、戦国時代に入ると、他のかつて周王朝に従っていた諸侯も、「王」の称号を使うようになった。このころになると、「王」は至尊の称号でなく、単なる君主の号となった。また、戦国時代の一時期、斉王が「東帝」、秦王が「西帝」と称したこともあったが、すぐに「王」の称号に戻した。このような背景から「王」の称号が価値を落としたと見て、秦の王・羸政が、他の王国を滅ぼした後、王を超えた称号として「皇帝」を名乗ったのである。これがいわゆる秦の始皇帝である。なお、考古学的知見などからは、殷の君主も「王」を称号としており、「帝」が君主の称号として用いられたことはないと考えられている。「王」以前の君主の称号として、「后」というものがあったということが考古学的発見や文献学的研究から分かっている。
「朕」という言葉はもともと広く自称の言葉として使われていたが、始皇帝は、「朕」という言葉を皇帝専用の言葉とした。他にも「制」・「詔」などの皇帝専用語も策定した。また、「王」の称号は用いられなくなった。
始皇帝からはじめて二世皇帝、三世皇帝と続ける予定だったが、始皇帝の死後、反乱が相次いだため、秦の皇帝は二代で終わった。始皇帝から数えて3代目である嬴子嬰は、始皇帝死後の反乱のために、中国全土を支配することができなかったために、単に「王」と称した。始皇帝の死後、反乱を起こした者たちは、次々と各地で、「王」を称した。中でも、戦国時代の楚の末裔である懐王心は、項羽・劉邦などの助けもあり、秦を滅ぼしたあとに、各地に並び立った「王」よりも、一段上の称号として、「帝」の称号を名乗った。その後、義帝(懐王心)を殺した項羽は西楚の覇王を称した。項羽を倒した劉邦が前漢の「皇帝」に即位し、これより後の歴代の中国の支配者は、「皇帝」を名乗るようになった。そして、各地に「王」を任命した。この時、皇帝は王を任命するという図式が成立したのである。また、「帝」の称号は、「皇帝」の略として広く使われるようになった。
中華思想では皇帝は地上の支配者であり、周辺諸国の君主よりも上に立つものとされた。皇帝と周辺諸国との交流は、周辺諸国の君主が皇帝の徳をしたって使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として冊封するという形をとった。
中華の秩序の上では近代的な国境という概念はなく、したがって皇帝の支配する領域という意味での「帝国」という言葉も使われなかった。
五胡十六国時代や五代十国時代のように中央の王朝の力が弱まった時代には、周辺の勢力の君主も皇帝を名乗るようになった。三国時代には中原を支配した魏のみならず、呉、蜀の君主もそれぞれ皇帝を称し、南北朝時代には2人の皇帝が同時に存在した。軍事力に劣った宋の皇帝は、北の異民族王朝である遼、金の君主を皇帝と認めた上で自らよりも格上(叔父と甥の関係、兄と弟の関係などと表現された)に位置付けざるを得ず、東アジアにおける中国君主が地上の唯一の皇帝であるという理念を自ら覆した。
また、日本の天皇のように中国の皇帝の冊封体制にない周辺国の君主は、自ら皇帝を名乗って、中国を除く周辺諸国に皇帝として振舞った。朝鮮の高麗朝の草創期やベトナムの阮朝のように、中国王朝に朝貢しながら国内に向けてはひそかに皇帝を称することもあった。
近代には、1897年朝鮮国(李氏朝鮮)は、清の朝貢国・(近代国際法上の)属国の地位を脱したことを明らかにするために、王を皇帝に改め、国号を大韓帝国(1897年 - 1910年)とした例がある。
ナポレオン・ボナパルトが、1804年に国民投票によって、フランス皇帝となるまで、ヨーロッパの皇帝の称号は、ローマ帝国の後継者としての称号であった。ヨーロッパ諸国で皇帝を意味する単語はローマ帝国の支配者の称号が起源である。
帝政ローマの最高支配者は、「君主」を称することを避けて、かわりに複数の称号を身に帯びた。そのうち日本語で皇帝にあてられるのは、フランスなどで用いられた称号(アンペルール)のもとであるインペラートルと ドイツやロシアなどで用いられた称号(カイザー、ツァーリ)のもとであるカエサルである。
インペリウム (imperium) は、字義通りには「命令」、「支配」を意味し、法的には共和政のローマで高官に戦時に与えられる軍事指揮権を意味した。インペラートル (imperator) は字義通りには「命令者」を意味し、インペリウムを持つ者である。共和制時代には、インペラートルが同時に複数存在することは正常な状態であった。これと別に、共和政後期になると、ローマの広大強力な支配権力や支配領域を指してインペリウムというようにもなった。
このように、ローマのインペラートルとインペリウムは君主制を前提とするものではなく、また、語源は同じでも「帝国の支配者=皇帝」と対にして用いることを予定したものでもなかった。この特徴はローマ滅亡後の後代にも幾分かひきつがれ、皇帝のない国を帝国と呼ぶ用法や、人民投票による皇帝を生み出すことになった。
カエサル (caesar) は、ガイウス・ユリウス・カエサルの家族名だが、彼の甥にして養子であるローマ帝国最初の皇帝、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスも当然カエサルとも呼ばれ、カエサルの名が代々の皇帝に受け継がれた。ここからカエサルという語が皇帝の意味に用いられるようになった。年代が進むにつれ、次期皇帝にはカエサルの名を送るようになった。彼らはまた職務上インペラートルでもあり、ただ一人の最高権力者(つまり皇帝)がインペラートルになる慣行が、帝政初期に徐々に定着した。
ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、293年に広大な領土を東西にわけ、2人の正帝と2人の副帝が共同で統治する四分治制(テトラルキア)を導入した。ここで「インペラートル・カエサル」が正帝、「カエサル」が副帝の称号となった。以後、東西の帝国が統合したり分裂したりを繰り返し、395年にローマ皇帝テオドシウス1世が没すると、テオドシウスの長男アルカディウスが帝国の東の正帝に、次男ホノリウスが帝国の西の正帝になった。
東西のローマ帝国における皇帝については下で述べる。
東ローマ帝国では皇帝の称号は王朝の交代はあったものの、1453年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)が滅びるまで代々受け継がれた。東ローマ帝国では、7世紀以降公用語がギリシア語となり「皇帝」を表す称号としては「バシレイオス(皇帝。元はアケメネス朝・ササン朝のシャーを指したギリシア語)」や「アウトクラトール(単独の支配者、専制君主)」という呼び方が用いられた。
東ローマの皇帝は、西ローマ帝国が滅亡した際ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ皇帝の位を東ローマ皇帝ゼノンに返還していたため、西ローマ帝国の滅亡後は名目上では全ローマ帝国の皇帝であった。この経緯もあってか、イタリアやイベリア半島の一部にまで及んだ東ローマ帝国の勢力が後退した後も、唯一の正統なローマ皇帝として単に「ローマ人の皇帝」と名乗り、「東ローマ皇帝」という呼び方は使われなかった。
また、後にフランク王カールやブルガリア王シメオン、ドイツ(神聖ローマ帝国)の王たちが「ローマ皇帝」を名乗った際は、東ローマ皇帝は彼らを「皇帝」としては認めるが「ローマ皇帝」としては認めない立場をとり、あくまでも自分だけが唯一のローマ皇帝であると主張した。
476年に西ローマ帝国が滅びた後の西ヨーロッパに対しては、前述のように東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスにいる皇帝が全ローマ帝国の皇帝として宗主権を主張し、6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の時代には、イタリアやイベリア半島の一部を東ローマ帝国が征服した。
このため西ヨーロッパ諸国やローマ教皇はコンスタンティノポリスにいる皇帝の宗主権を認め、その臣下とならざるを得なかった。ゲルマン人に布教を進めてローマ教会の勢力を拡大し、「大教皇」と呼ばれた6世紀末のグレゴリウス1世でさえも、それは同じであった。実際、7世紀の教皇マルティヌス1世のように、教義をめぐって対立した東ローマ皇帝コンスタンス2世によって逮捕され、流刑に処せられた者もいたほどであった。
7世紀以降、東ローマ帝国はイスラム帝国の攻撃を受けて弱体化したためにイタリアでの覇権を維持できず、またローマ教会とは聖像破壊問題などの教義の問題や教会の首位をめぐるローマとコンスタンティノポリスの争いなどで対立を深めるようになった。このためローマ教会は東ローマ帝国に変わる新たな後ろ盾が必要になり、ローマ教皇レオ3世は、800年に国力の伸張著しいフランク王国の国王カールに「ローマ皇帝」の称号を与えた。これがカール大帝である。
以後、西ヨーロッパの皇帝は西ローマ皇帝の後継者、キリスト教の守護者の意味を持つようになる。また、本来ローマ皇帝は「元老院・市民・軍隊」によって選ばれるものだったのだが(東ローマ帝国では最後までその建前が守られた)、カール大帝の戴冠の経緯はローマ教皇が皇帝の任命権を主張する根拠ともなった。
962年に東フランクのオットーは、ヨハネス12世から皇帝の冠と称号を受けた。ここに、神聖ローマ帝国が成立する。以後、皇帝の称号を帯びるためにはローマ教皇の承認を得なければならなくなった。しかし、時代が進むにつれ、帝国は王侯と諸侯のおだやかな連合体になっていき、皇帝の権力も弱まっていった。
1654年にカール4世は金印勅書を発布し、選帝侯が皇帝を選出するようになり、ローマ教皇の干渉を受けなくなるようになった。1438年にハプスブルク家のアルプレヒト2世が選出されてからは、1人の例外を除いてハプスブルク家が皇帝位を独占するようになり、皇帝は帝国の最有力諸侯であるハプスブルク家が帯びる名誉称号に近いものになった。特に三十年戦争以後は、各諸侯領はほとんど独立国家同然となり、皇帝とは名ばかりの存在になっていった。
フランスでは革命以後、ナポレオンが勢力を強め、1804年には、議会の議決と国民投票によって皇帝になった。
ナポレオンの皇帝即位により、西ヨーロッパで皇帝の位が持っていたカール大帝以来のキリスト教世界の守護者という意味合いをほとんど完全な有名無実化させた。1804年に神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は自身をオーストリア皇帝フランツ1世と称し、さらに神聖ローマ帝国皇帝を辞した。これにより西ヨーロッパの伝統的な理念に基づく皇帝は消滅する。
1871年にはオーストリアを除くドイツを統一したプロイセンの国王が、ドイツ皇帝を兼ねた。
この地域の皇帝概念は東ローマ帝国を経由してローマ帝国のそれを受け継いだものである。なお、前述のように東ローマ帝国では皇帝は「バシレイオス」と称し、「カエサル」は副皇帝を示す言葉だったのだが、何故か東ヨーロッパのスラヴ系の言語では、皇帝を指す言葉として「カエサル」由来の「ツァーリ」を用い、東ローマの皇帝をツァーリと呼んでいた。
東ローマ帝国以外では、920年にブルガリア公シメオンが東ローマ帝国征服を狙って「ブルガリア人とローマ人の皇帝(ツァーリ)」を称し、以後、第1次ブルガリア帝国(920年 - 1018年)と第2次ブルガリア帝国(1188年 - 1396年)を通じて、皇帝という称号が使われた。また14世紀のセルビア王ステファン4世ドゥシャンも東ローマ帝国の征服を企図して、1345年に「セルビア人とローマ人の皇帝」と称した。
15世紀にルーシの統一を進めつつあったモスクワ大公国のイヴァン3世は、皇帝を意味する称号「ツァーリ」を使い始めた。1453年にオスマン帝国によって東ローマ帝国が滅ぼされると、イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝の姪ソフィア・パレオローグと1472年に結婚し、東ローマ帝国の紋章「双頭の鷲」も使い始め、ロシアが東ローマ帝国の後継者であることを位置付けた。
その後、イヴァン3世の孫イヴァン4世は、1547年にツァーリとしての戴冠式を執り行い、「ツァーリ」の称号が正式に用いられ始めた。
ただし、それ以前に、モンゴル帝国の王族バトゥが創始したキプチャク汗国(1224年~1502年)は遊牧民の君主理念に基づき汗が支配する国家であったが、その支配下にあったルーシの人々は、キプチャク・ハンを東ローマ皇帝に準じて「ツァーリ」(皇帝)と呼んでいたのだから、モスクワ大公のツァーリ称号の主張は、東ローマの継承と同時にキプチャク汗のルーシ、モンゴル=タタール支配の継承を意図するものであったとみる説もある。イヴァン4世は1576年、皇子(ツァーレヴィッチ。当時のロシアの用例では、キプチャク汗の血を引くモンゴル系貴族のこと)シメオン・ベクブラトヴィッチに一度ツァーリ位を譲った後、再び自身が譲位を受けるという行動を取るが、先の説に立つ人々は、これをキプチャク汗(ツァーリ)の後継者としての宣言であったと解釈している。
ロシアの君主は、ピョートル1世時代の1721年、「インペラートル」の称号を用い始め、国号を正式にロシア帝国と称したが、「ツァーリ」の称号も引き続き用いられた。
イスラム世界の君主には様々な称号があるが、なかでも、帝国的領域を支配していたカリフ、スルタン、シャー(パーディシャー)を皇帝と呼ぶ。これに対して、マリクには王、アミールには首長の語が定訳とされ、皇帝と訳されることはあまりない。
イギリスの王は、ムガール帝国を植民地にした際、インド皇帝を兼任する形にした。このインド皇帝位はインド独立時に返上された。なお、大英帝国(ブリティッシュ・エンパイア)とは、16世紀から20世紀半ばまでのイギリスの広大強力な支配圏をローマのインペリウムになぞらえて指したもので、インド皇帝位に直接由来するわけではない。
日本ではインカ帝国の君主に「皇帝」を使うことがある。
またブラジルでは、ポルトガル王ジョアン6世の息子ペドロが、ポルトガルから独立したブラジル帝国(1822年-1889年)の皇帝ペドロ1世となった。また、メキシコでは、ハプスブルク家のマクシミリアン大公が、メキシコへ干渉したフランス皇帝ナポレオン3世によって1864年にメキシコ皇帝に担ぎ上げられたが、在位わずか3年で革命軍によって捕らえられ、処刑されている。
古代の日本は、中国皇帝の別名「天皇」を、君主の称号として和名の「すめらみこと」にあてた。歴史学者の間では「天皇」という称号の出現は天武天皇の時代という説が有力である。
日本は明治時代に自国を大日本帝国と称し、世界の独立した君主制国家を全て帝国、君主を皇帝と呼称した。
これは上下の区別をつけない為の大日本帝国政府の配慮であった。
西欧語では中国の皇帝と日本の天皇の訳語に インペラートルに相当する語 (英語の Emperor など) が用いられる。江戸時代にはMikadoなどと表現されていたが、1902年日英同盟の覚書に「日本国皇帝」と表現されたことでEmperorとなり、その後、日露戦争においてロシア帝国に勝利したことで、世界的に皇帝として天皇が認知されるようになる。東アジアの皇帝
「皇」と「帝」
「皇帝」の登場
皇帝の定着
冊封体制と皇帝
皇帝の乱立
ヨーロッパの皇帝
ローマ帝国
東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)
西ヨーロッパ
カール大帝の「西ローマ帝国」
神聖ローマ帝国
1806年、ついにフランツ2世は神聖ローマ帝国皇帝を辞し、神聖ローマ帝国は名実共に滅びた。近代の皇帝
東ヨーロッパ
その他の地域の皇帝
イスラム圏
インド
中南米
天皇あるいは大日本帝国皇帝
日本が「天皇」という称号を持つに至った経緯は、607年聖徳太子が隋の煬帝に送った手紙において、対等を表明するため「日出る処の天子」と語ったところに由来し、663年の白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗れたことで、明確に唐と対等の独立国家であることを主張するためと考えられる。
ただし諸学者の中にはTennoをそのまま用いるものもある。なお、皇族(宮様)は英語ではImperial Princesとなる。