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| Table of contents |
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2 小アジア戦役 3 ギリシャ戦役 4 講和 5 参考文献 |
ポントゥスは、シリア戦争までシリアに服属する独立国であったが、シリアが後退すると、ローマの属国として扱われるようになった。ポントゥス王ミトリダテス5世は、カッパドキアを攻めて併合した。その子ミトリダテス6世が王位を継承してから、ローマは前92年にカッパドキアを亡命者アリオバルサネスに返還するように命じた。ミトリダテスは返還を受諾した。
しかし、ミトリダテスは、隣国ビテュニアの王の兄弟ソクラテスに一軍を与え、ビテュニアに送り込んだ。ソクラテスはニコメデス王を追ってビテュニアを支配した。他方、カッパドキアでもミトリダテスの援助を受けた反乱が起こり、ローマが送り込んだ王を追ってアリアラテスを王に立てた。
ローマはマニウス・アキリウスを長とする使節団を送り込み、追放された二人の王を復位させようとした。マニウスは、属州アシアの総督ルキウス・カッシウスが持つローマ軍と、臨時に徴収した諸民族の兵力によって目的を達した。ミトリダテスはこれを静観した。しかしマニウスとカッシウスは戦争を望み、復帰した王にポントゥス攻撃を薦めた。ビテュニアのニコメデスはこの薦めに応じてポントゥスに侵攻し、略奪した。ミトリダテスはなおも反撃を控え、マニウスに抗議の使者を送ったが、無視された。ミトリダテスは子のアリアラテスをカッパドキアに送り込んで占領した。当時のローマの法では、宣戦は元老院の権限であったが、マニウスらは自己の判断でミトリダテスに対する戦争を始めた。
前88年に始まった戦争で、ローマは少数のローマ軍のほかに現地で徴収した兵力で大軍を組織した。軍を三つに分けて各々をルキウス・カッシウス、マニウス・アキリウス、キントゥス・オッピウスが率い、ニコメデスのビテュニア軍も加えて四方面に分かれてポントゥスとカッパドキアに向かった。
ミトリダテスは分進するローマ軍を各個撃破した。まずアムニアス川の戦いでニコメデスを迎撃し、国境を越えて逃げる敵を追って、マニウスが守るプロトパキウム要塞を7時間で攻略した。さらにカッシウスの軍も破った。ローマの敗将たちと、ビュザンティオンにあった艦隊は離散し、ミトリダテスはビテュニア全域を支配した。ミトリダテスは捕虜に帰国の費用を与えて帰らせ、孤立して降伏したオッピウスを丁重に遇したが、マニウスだけは処刑した。
ミトリダテスはさらに進み、属州アシアなど、エーゲ海沿いの小アジア全域を手中にした。支配の確立後、ミトリダテスは新しい支配地域の全土で一斉にローマ人とイタリア人を皆殺しにする命令を出した。イタリア生まれの者は、男女の別なく子供も含めて殺された。
ミトリダテスは艦隊を率いて、ローマ側につくロードスの攻略に向かった。しかし、陸兵を輸送する船団が嵐に見舞われ、ロードス海軍の巧みな抗戦にもあって、攻略は失敗した。
前87年に、ミトリダテスはアルケラウスに一軍を与えてギリシャに送った。これに呼応して、アテナイ、ラケダイモン(スパルタ)、さらにボイオティアの大半がミトリダテスの味方についた。さらにメトロファネスに率いられたポントゥス軍の別働隊が、エウボイアを攻略した。マケドニアはローマ側につき、ブルッティウス指揮下の軍を南下させた。ブルッティウスはメトロファネスの脅威を退け、ボイオティアのカイロネイアでアルケラウス軍と対陣した。ブルッティウスは兵力の劣勢を悟って退いた。
ここでローマ軍がギリシャに上陸した。ローマ軍を率いたのは、アシア総督に任命されたスッラであた。スッラは五個軍団と若干の大隊をもってギリシャに渡った。スッラの出現でテバイなどボイオティアの大半はローマに寝返った。アルケラウスはアテナイの外港ピラエウスに立て篭った。ピラエウスの戦いでは、双方の技術と武勇を駆使した激しい攻防が展開された。ローマ軍がピラエウスの城壁を突破すると、アルケラウスは内城に引き下がり、次いで海から撤退した。
これより前、スッラとの対戦中に、ミトリダテスの子アルカティアスがマケドニアに侵攻して全土を制圧していた。アルカティアスはそこから南下する途中で病死した。アルケラウスはボイオティアに回りこんでこの軍をあわせ、ローマ軍を上回る兵力を得た。しかし前86年に、スッラは山間のカイロネイアの戦いで身動きのとれない大軍を撃滅した。アルケラウスは敗兵をまとめていったんエウボイアのカルキスに退いた。すぐにギリシャ本土に再上陸したが、前85年にオルコメノスの戦いで再び敗れてカルキスに戻った。開戦まで
小アジア戦役
ギリシャ戦役