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| Table of contents |
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2 大戦の前夜 3 大戦の経過 4 大戦の結果(ヴェルサイユ体制) |
1914年6月28日、オーストリア皇太子暗殺事件、いわゆるサラエボ事件をきっかけとして勃発した。
当時の各国の複雑な同盟関係から瞬く間に戦火は拡大し初の世界大戦となった。各国の君主等は開戦を希望していなかったが、用意されていた防衛計画と総動員制度に政府官僚の暴走が加わり開戦に至ったと考えられている。
当初戦争は速やかに(「クリスマスまでに」)終わると思われたが、兵器の進歩のために進軍は停止し塹壕戦となり、予想外に長期化した。
その結果交戦国全てに国家総力戦を強いることとなった。
1918年11月、ドイツのキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝は退位に追い込まれ、大戦は終結した(11月11日に休戦)。
この戦争において始めて投入された兵器(飛行機・戦車・潜水艦等)も多く、それまでに行われた国家間の戦争に比べ、死傷者の数が飛躍的に増加した。また初めて毒ガス兵器が使われた戦争でもあった。
軍事的に考察すると、戦争の始まりは銃を持った兵が騎馬に乗って突撃するといった戦国時代さながらの戦争であったが、戦争終わりには上記のような近代兵器が出現し戦争の有様が一変した。
特に戦車の出現が革命的で、負けたドイツ側は戦後の再軍備前から密かに戦車の開発と運用を研究していた。それが第二次世界大戦で実行されることになる。
オーストリア・ハンガリー帝国はハプスブルク家による君主制であったが、サラエボ事件に対しベルヒトルト外相の局地戦か開戦せずに済むとの判断を入れ、7月23日セルビア政府に対し最後通牒を実施。セルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日国交断然に踏み切る。躊躇する皇帝と軍部の反対を押し切る形で7月28日宣戦布告。ベオグラード占領。
ドイツ帝国 は独墺同盟の関係から相談されたオーストリア・ハンガリー帝国に対しセルビアへの強硬論を説き、オーストリア・ハンガリー帝国を支援。次いで、ロシア帝国の総動員令に対して小モルトケが暴走し「シェリー・フェンプラン」に基づき8月1日総動員を発令、プラン実行の必要からベルギーに対し無害通行権の要求を開始するなど、3大国を相手にした戦争の準備を開始。翌日には対ロシア宣戦布告し、第一次世界大戦開戦。
ロシア帝国はオーストリア・ハンガリー帝国のセルビアへの宣戦布告に対して、部分動員では手遅れになる場合を想定し、7月31日総動員令をもってセルビア支援を実施。結果、参戦。
フランスは露仏同盟とドイツ帝国の暴走により参戦。
イギリスは中立を維持できず、外交交渉を諦め参戦。
日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった日本(大日本帝国)は、イギリス・フランスから要請され連合国側として参戦し、シベリア出兵を実施した。この結果、戦後に日本は五大国の一国としてパリ講和会議(1919年)に参加し、ベルサイユ条約により東アジアに於けるドイツの権益を譲り受けた。
1882年にはドイツ・オーストリア・イタリアから成る三国同盟の成立、1907年にはイギリス・フランス・ロシアから成る三国協商が成立していた。前者が同盟国、後者が連合国となり、これがそのまま大戦の陣営になる。
1919年にパリ講和会議が始まる。結果、ドイツは多額の賠償金を迫られ、多民族国家であったオーストリアは帝国内の地域がこぞって独立。従来の四分の一にまでその領土を減らした。オスマン帝国もイギリスとフランスにより多くの領土を減らされ、この時のイギリスの外交により後のパレスチナ問題が発生することになる。
simple:World War I
大戦の概要
大戦の前夜
オーストリア・ハンガリー帝国
独墺同盟ドイツ帝国
独墺同盟ロシア帝国
露仏同盟フランス
露仏同盟イギリス
英仏協商、英露協商、日英同盟アメリカ
英仏の要請により参戦。日本
大戦の経過
1914年
1915年
1917年
1918年
大戦の結果(ヴェルサイユ体制)