|
|
| Table of contents |
|
2 神宮寺の建立 3 本地垂迹説 4 年表 5 関連事項 |
仏教伝来の当初、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識された。日本で最初に仏を祀ったのは尼であるという記録があるが、これは巫女が日本の神祇を祀ってきたというのをそのまま仏にあてはめたものだと考えられている。
寺院の焼亡による仏の祟りという考え方も、神祇信仰をそのまま仏に当てはめたものと理解できる。
日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するに連れ、次には仏のもとに、神と人間を同列に位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求めるという認識がされるようになった。奈良時代後半、伊勢の豪族の氏神の多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣したという記録が残っている。他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依したいとの意思を示すようになった。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。
こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望であったと考えられる。社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められた。それに答えるように雑密を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を進めたのだと思われる。まだ密教は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、人々に受け入れられたのだろう。
こうして神社が寺院に接近する一方、寺院も神社側への接近を示している。8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになった。東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して鎮守とした。これは現在の手向山八幡宮である。ほかの古代の有力寺院を見ても、興福寺は春日大社、延暦寺は日吉大社、金剛峰寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などといずれも守護神を持つ事になった。
この段階では、神と仏は同一の信仰体系の中にはあるが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在としてみるまでには及んでいない。この段階をのちの神仏習合と特に区別して神仏混淆ということもある。数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫する事なく神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合うかたちとなった。
仏教の伝来
神宮寺の建立
本地垂迹説