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東京帝国大学機械工学科卒業。神戸製鋼で働いていたが、1924年、星製薬に入社。そこで印刷部主任をしていた森澤信夫(のちにモリサワを創業)と出会い、ともに写真植字機の実現を目指すことを誓う。石井の実家は米穀商であったため、その資金力を背景に1926年、石井写真植字機研究所を設立。森澤とは後に方針の違いから決別するが、この研究所が後に写研となり、日本の印刷・出版業界をリードする企業に育っていく。
石井は自分自身でタイポグラフィ(文字のデザイン)も手がけ、むしろその方面での評価が高い。彼の手になる石井明朝体、石井ゴシック体など数々の石井書体をはじめとして、写研の文字(フォント)の質の高さは彼以来の伝統であり、DTPの怒濤の普及の中で、高価な写研の独自仕様のシステムが戦っていられるのは、組版品質の高さと以上に、外部に開放しなかったその高品位の書体のゆえであるという。
現在、市販されている漫画は大抵、吹き出し部分の台詞が、漢字はゴシック体、平仮名・片仮名はアンチック体(antique=アンティークの意)で組まれている。多くの場合において、このゴシック体が石井ゴシックである。
1951年、大修館書店の鈴木一平より『大漢和辞典』(諸橋轍次 編)を刊行するために使用する文字(写植原字)の製作を依頼された。この大著を印刷するための版が、空襲で失われてしまっていたためである。彼は病気を理由に断るが、最終的に承諾。独力で47500字におよぶ写植原字を3年がかりで書き上げた。文化的にも大きな足跡を残した。この業績に対して1960年、菊池寛賞を贈られている。
のちに写研では彼の名を冠して石井賞創作タイプフェイスコンテストを設け、優秀な書体を写植文字盤として発売することとした。この賞からはナールやスーシャなどの書体が生まれ、受賞者たちはそれぞれ、その後の日本のタイプフェイスデザインを引っ張っていく存在として成長していった。
1回から10回までの、第1位(石井賞)の一覧
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