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魏(ぎ、220年 - 265年)は三国時代中国の北部に存在した王朝である。首都は洛陽。曹氏が代々皇帝を務めたことから、曹魏ともいう。
後漢の力が弱まりつつある中、中国北部は、後漢の丞相でもあった曹操の支配下にあった。213年、曹操は魏公(ぎこう)に任命され、10の都市の所有を認められた。この領域を魏公国と呼んだ。その頃、中国南部には劉備と孫権の2人の軍閥が割拠していた。216年、曹操は魏王(ぎおう)に昇進した。当時、皇族以外には「王」の位を与えないという不文律があったのにもかかわらず、曹操が王位に就いたということは、次は皇帝位を狙うということに他ならなかった。
220年、曹操が死ぬとともに、曹操の子である曹丕が魏王と後漢の丞相の地位を継いだ。この年、曹丕は、後漢最後の皇帝の献帝から禅譲を受け、魏の皇帝となった。しかしながら、南方の劉備や孫権も皇帝を自称した。
魏は、263年に劉備の建てた蜀を滅ぼしたが、265年には、魏の最後の皇帝が、魏の丞相の司馬炎に禅譲することで滅びた。司馬炎は晋を建国した。魏が漢から帝位を奪った形式と全く同じ形で、晋に帝位を奪われたことは歴史の皮肉と言えよう。
魏と並立していた呉、蜀をあわせた三国の歴史を編纂しひとつにまとめたものが三国志である。また、この三国志の一部を構成する魏志には、今日魏志倭人伝の名で知られる、邪馬台国を記した箇所がある。
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2 魏の皇帝の一覧 3 魏の年号の一覧 |
魏の成立の年代について
厳密に言えば、曹丕が、禅譲を受けて皇帝になった220年を魏の成立とするべきである。しかしながら、曹操の存命中も事実上曹操が皇帝のように君臨して万事を動かしていたのだから、曹操が権力を手に入れてからを事実上の魏王朝の成立と見た方がよいこともある。その場合、次のような時期が事実上の魏王朝の成立と捉えられる。
また、文学史的にいえば、後漢の建安年間(196年 - 220年)は曹操を中心とした文学サロンが形成され、新しい文学の形を作っていた(建安文学)。この建安文学の流れが、魏の時代のみならず、魏晋南北朝時代全体にわたって続いていく。それゆえに建安年間も魏の一時期と考えた方が、文学史的にはわかりやすいと言える。
魏の皇帝の一覧
世祖文帝(曹丕、在位220年 - 226年) 武帝の子