|
|
もう一つのヘブライ語のネシャーマーという言葉(創 2:7)もやはり、「息」を意味しているが、意味の範囲はルーアハよりも限られている。ギリシャ語のプノエーは同様の限られた意味を持っているようで(使徒 17:25)、セプトゥアギンタ訳の翻訳者たちにより、ネシャーマーの訳語として使われた。
聖書はルーアハつまり生命力を人間だけでなく、動物のうちにもあるものとして引き合いに出している。(創 6:17; 7:15,22)伝道の書 3章18‐22節は、人間が動物と同じような仕方で死ぬことを示している。というのは、「皆ただ一つの霊[ウェルーアハ]を持っており、したがって人が獣に勝るところは何もない」、つまり、生命力に関しては両者は共通だからである。そういうわけで、この意味で使われている「霊」、もしくは生命力(ルーアハ)が人格的存在でないことは明らかである。一つの例えとして、それを目に見えない別の力である電気になぞらえられるかもしれない。電気は様々な種類の機械を働かせるために使える。ストーブは熱を生じさせ、扇風機は風を送り出し、コンピューターは問題を解き、テレビは画像や声や他の音を再現させる。しかし、機械の中で働く、あるいはその中で活動する電流は、決してその機械の特徴を帯びたりはしない。
したがって、詩編 146編3,4節は、人の「霊[ルーアハの変化形](が)出て行[く時]、彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる」と述べている。人間の体の細胞の中で活動していた霊、つまり生命力は、脳細胞とその思考過程での役割のような細胞の何らかの特徴を保持したりはしない。もしその霊つまり生命力(ルーアハ; プネウマ)が人格的存在であったなら、預言者のエリヤやエリシャによって復活させられた、あるイスラエル人の女たちの子供は、死んでいた期間中、実際にはどこかで意識を持って存在していたということになるであろう。死後、4日ほどして復活させられたラザロの場合も同様である。(王一 17:17‐23; 王二 4:32‐37; ヨハ 11:38‐44)もしそうだったとすれば、彼らは意識を持って存在していた期間のことを覚えていて、復活させられた時にそのことを説明したり、話したりしたと考えるのは妥当なことであろう。そのうちのだれかがそのようにしたことを示唆するものは何もない。したがって、亡くなった個々の人の性格は、生命力つまり霊の中で永久に存在するわけではなく、霊は死んだ人の体細胞の中で機能を停止するのである。
伝道の書 12章7節には、人が死ぬと、体は塵に帰り、「霊もこれをお与えになったまことの神のもとに帰る」と述べられている。人は一度も天で神と共にいたことがない。ゆえに、神のもとに「帰る」のは、その人を生きられるようにした活力である。
人間のうちに(また,動物のうちにも)ある生命力つまり霊の非人格的性質を考えれば、イエス・キリストが死に臨んで引用された(ルカ 23:46)、「わたしはあなたのみ手にわたしの霊を託します」という、ダビデの述べた詩編 31編5節の言葉は、明らかに自分の生命力を守っていただきたい、または顧みていただきたいと神に叫び求めていることを意味している。(使徒 7:59と比較。)何らかの力がこの惑星から天の神のみ前に文字通り、また実際に送り届けられることは必ずしも必要ではない。ちょうど動物の犠牲の快い香りが確かに地球の大気圏内にとどまっていたのに神がそのような香りを『かぐ』ことをされたと言われているように(創世記 8:20,21)、神は霊つまり生命力を、比喩的な意味で、すなわち活力を地球から文字通り運ぶようなことをせずに、ご自分に託されたものとして『集める』、つまり受け入れることがおできになった。(ヨブ 34:14; ルカ 23:46)それで、人が自分の霊を託すということは、将来、そのような生命力が復活によって自分自身のうちに回復されるという希望を神に置くことを意味しているようである。―民 16:22; 27:16; ヨブ 12:10; 詩編 104:29,30と比較。
ルーアハとプネウマは両方共、ある特定の態度、性向、感情を人に示させたり、ある特定の行動もしくは道を取らせたりする力を表すために使われている。人の内にあるそのような力それ自体は目に見えないが、それは目に見える結果を生じさせる。
たとえば、旧約聖書にはエサウがヒッタイト人の女たちと結婚したためにイサクとリベカが抱いた「苦々しい霊」や(創 26:34,35)、アハブを圧倒して食欲を失わせた悲しみの霊(王一 21:5)について書かれている。「しっとの霊」に動かされた夫が自分の妻を疑い、姦淫の罪で妻を告発することさえあり得た。―民 5:14,30。
心を動かして行動させたり、話させたりする「衝動」もしくは「推進力」を人に与える力の基本的な意味は、「内に霊を持つ者」であったヨシュアや(民 27:18)、10人の斥候の悪い報告を聞いて士気をくじかれたイスラエル人の大半とは「異なる霊」を表したカレブに言及している箇所にも見いだされる。(民 14:24)エリヤは神への熱心な奉仕を行なう強い衝動と力を持っていた人でしたし,エリシャはエリヤの後継者としてエリヤの霊の二つの分にあずかることを願い求めた。(王二 2:9,15)バプテスマを施す人ヨハネもエリヤが示したのと同様の強烈な衝動と精力的な熱意を表し、その結果、ヨハネは自分の話を聴いた人々に強力な影響を及ぼした。ゆえに、彼は「エリヤの霊と力をもって」出て行ったと言うことができた。(ルカ 1:17)これとは対照的に、ソロモンの富と知恵はシェバの女王を圧倒し、あっと言わせるような影響を与えたため、「彼女の内にはもはや霊がなかった」ほどであった。(王一 10:4,5)この同じ基本的な意味で、人の霊は「かき立て」られる、あるいは「奮い立たせ」られる(代一 5:26; エズ 1:1,5; ハガ 1:14。伝 10:4と比較)、「騒ぎ立つ」、あるいは「いら立つ」ようになる(創 41:8; ダニ 2:1,3; 使徒 17:16)、『静められる』(裁 8:3)、『苦しむ』、あるいは『衰え果てる』(ヨブ 7:11; 詩 142:2,3。ヨハ 11:33; 13:21と比較)、『元気づけられる』、あるいは『さわやかにされる』(創 45:27,28; イザ 57:15,16; コリ一 16:17,18; コリ二 7:13。コリ二 2:13と比較)場合があるのである。
人格的存在ではない
人を促す働きをする精神的傾向
関連語句