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高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日(1839年9月27日) - 慶応3年4月14日(1867年5月17日))は、幕末の長州藩藩士。名は春風、字は暢夫、号は東行。
長州藩士の高杉丹治の嫡子として生まれる。少年期に藩校明倫館に入学、1857年には松下村塾に入り、吉田松陰に高く評価される。1858年に江戸に出る。1860年に帰郷。
1862年に藩の命令により幕府の使節とともに上海へ渡航する。そこで、清が欧米の植民地となりつつある実情や太平天国の乱を見聞し大きな影響を受けた。帰国後、幕府に対し公武合体政策の放棄や富国強兵を進言する。これが不採用となると、攘夷運動に加し、品川のイギリス公使館を焼き討ちする。やがて、過激な尊皇攘夷運動と距離を置き、1863年藩へ10年間の暇を願い出て剃髪し、東行と号する。
しかし、同年起こった下関事件で馬関総奉行に抜擢され下関防衛を任される。そこで武士隊の敗北をしり、農民や町人も入隊できる奇兵隊を結成する。1864年には、長州藩で起こった京都への出兵論に反対して脱藩、投獄される。
のちに許されて、下関事件の外交処理にあたるが、第1次長州征伐で佐幕派の勢力が大きくなったため北九州に逃亡した。1865年初めに討幕派を集めて決起し、藩政の主導権を握る。
第2次長州征伐では小倉方面の戦闘を指揮し勝利する。しかし、肺結核のため要職を退き、下関で病死した。
辞世の句は「おもしろきことをなき世もおもしろく」であり、下の句は看病していた野村望東尼「すみなすものは心なりけり」とつけたと言われている。