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日本の平戸で父鄭芝竜と日本人の母の間に生まれた。幼名を福松と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、七歳のときに父の故郷福建につれてこられる。鄭芝竜の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために武力を持っていた。
1644年、李自成が北京を陥落させ崇禎帝が自殺すると、逃れた皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝竜達は唐王朱聿鍵を擁立し、清に対しての抵抗運動を始めた。この時に元号を隆武と定めたので朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。
父により隆武帝に引き合わされ、眉目秀麗でいかにも頼れそうな鄭森は大いに気に入られ「朕に娘がいれば娶わせるのだが残念ながらいない。その代わりに国姓の朱を与えよう。」と言われたが、恐れ多いと国姓は使わずに鄭成功と名乗る。これ以降鄭成功は国姓爺(爺は老人の意味ではなく、旦那と言う程の意味)と呼ばれるようになった。
隆武帝軍は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、鄭芝竜はこの軍に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めようとしたが、鄭芝竜は意思を変えず、父と子の道は別れることになった。
その後、広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまずアモイ島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。
1658年(明永暦十二年、清順治十五年)、鄭成功は17万5千の北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた。
意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に会い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の3月25日に再度進軍を始めた。
鄭成功軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進む。所が南京では大敗してしまった。途中の小さな勝ちが油断を生んだためである。
その後、鄭成功は台湾を占拠していたオランダ人を追放し、ここを根拠とする。そのすぐ後に死去した。