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酒井忠次

酒井忠次(さかいただつぐ、1527年 - 1596年)は戦国時代安土桃山時代三河国の武将。徳川家康に仕えて多くの戦功をたて、出羽国庄内藩15万石の藩祖となった。

松平氏の譜代家臣左衛門尉酒井家の当主酒井忠親の子で、家康の父松平広忠に仕え、左衛門尉と称する。家康の祖父松平清康と夫人於富の方の間の娘で広忠の異母妹にあたる碓井姫を妻とした。碓井姫の母於富は元々水野忠政の夫人で家康の母於大の方の実母であったから、忠次は家康にとっては父母双方の妹の夫、義理の叔父ということになる。

広忠の没後、家康に仕えて駿府での人質生活に従う。桶狭間の戦いの後、家康が今川氏から自立すると、家康の重臣となる。1564年、三河国吉田城(愛知県豊橋市)攻めで戦功を立て、吉田城主に取り立てられた。以後、忠次は「東三河の旗頭」として三河東部の諸松平家・国人を統御する役割を与えられる。

姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手の諸戦役に参加し、東三河勢を率いて戦功を立てる。特に、三方が原の戦いに際して浜松城の太鼓を打ち鳴らし敗戦の味方を鼓舞した逸話、長篠の戦いで鳶が巣山砦を奇襲、攻略して織田信長の賞賛を受けた逸話が有名である。

1579年に家康の嫡子信康が織田信長の詰問を受けたとき、忠次は大久保忠世とともに弁解の使者に立てられ安土城に赴いたが、信康を十分に弁護せず信康切腹の命令を防げなかった。

家康が豊臣氏の傘下に入ったのちも、豊臣秀吉から家康第一の重臣として遇され、従四位下・左衛門督に任官される。1588年に隠居して嫡子家次に家督を譲り、1596年京都で没した。

1590年に家康が関東に移封されたとき、家次が忠次の功労にも関わらずわずか3万石しか与えられなかったことを家康に抗議して「お前も我が子が可愛いか」と言われて信康事件の不手際を言外に難詰されたという話はよく知られており、晩年は不遇であったとも言われる。

のちに徳川四天王十六神将の筆頭に数えられ、家康の功臣として顕彰された。





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