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聖徳太子(しょうとくたいし、574年 - 622年)は飛鳥時代に活躍した日本の政治家。父は用明天皇、母は欽明天皇の娘である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。 本名は厩戸皇子(うまやどのおうじ、うまやどのみこ)。これは厩戸の前で出産と伝えられることより。別名、豊聡耳(とよさとみみ、とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。古事記では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。日本書紀では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後の贈り名。
| Table of contents |
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2 墓所 3 聖徳太子の著作 4 聖徳太子架空説 5 聖徳太子にまつわる伝説 6 聖徳太子天皇説 7 聖徳太子が登場する作品 |
実績
592年に推古天皇が即位すると、その甥である聖徳太子は皇太子となり、翌593年に摂政となり天皇を補佐した。
596年(推古3)太子、高句麗の僧彗慈を師とする。
603年に冠位十二階を定め、604年には十七条憲法を制定。天皇を中心とする中央集権体制の確立を目指した。
604年(推古12)に「和を以て、貴しとなす。篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。」などを国家の基本とした憲法十七条を作った。この憲法十七条は、豊かな古典の教養のある文であるが、聖徳太子が自らつくったとは思えない箇所がたくさん指摘されている。それは、多くの倭習(わしゅう)が認められることである。倭習とは、日本語的発想に基づく誤用や奇用。「和臭」とも書かれる。否定詞「非」「不」の誤用、副詞「亦」の誤用、助字「之」の奇用、語順の誤りなどである。594年(推古2)聖徳太子と蘇我馬子に三宝の興隆を詔すると、臣・連ら競って仏舎利(寺)を造ったという。
日本銀行券にデザインされた。
墓所は大阪市太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されている。しかし、実際は後世になって太子信仰がさかんになったときに定められたものと考えられ、信憑性は定かではない。
一部の学者は聖徳太子の存在を否定している。実在を示すとされる史料の使用語彙で推古天皇の時代に使われていないものがあることを根拠にしているという。聖徳太子が建立したとされる法隆寺金堂薬師如来像光背銘文中の「仕奉」の語彙が使用され始めるのは7世紀末であり、銘文はそれ以降の創作であると主張する。
ただし、実在を否定する決定的な史料は無い。
なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている記紀の編纂が既に死後一世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、相当の脚色が加わっていると思われる。そのため様々な研究・解釈が試みられている。また、各地に聖徳太子が建てたという寺院が多いが、後世になって縁起が創作されたものが多いと思われる。
しかし一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年は甲午(きのえうま)の午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。
聖徳太子は実は天皇だったという説もある。それは、聖徳太子の両親に当たる用明天皇と穴穂部間人皇女は異母兄妹であり、兄妹婚で生まれて、即位したという例がない。『日本書紀』の編者の改竄ではないかという説である。
『隋書』倭国伝に「姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(おおきみ)と号す。」とみえる。この時の天皇は推古であり、太子ではなかったにもかかわらず、遣隋使小野妹子がこう(男王として)答弁したと記録していることから、この説が出てきている。
天皇制の正当性を目指して編纂されたと思われる『日本書紀』が天皇まで入れ替えたのか。墓所
聖徳太子の著作
聖徳太子架空説
聖徳太子にまつわる伝説
以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。豊聡耳
厩戸皇子があるとき、人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は十人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答を返したと言う。この皇子の聡明さを讃えて、これ以降皇子は豊聡耳とも呼ばれるようになった。四天王寺
蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、難波に四天王寺を立てた。
(スタブ)出生の伝説について
「厩の前で生まれた」「母の間人皇女は救世観音が胎内に入り、皇子を身ごもった」などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教ネストリウス派)の知識が日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者もいる。
さらに空想をたくましくして古代イスラエル民族との直接の関連性を唱える極端な仮説も存在する。聖徳太子天皇説