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1905年(明治38年)1月3日、当時の皇太子嘉仁親王の三男として青山御所で誕生。幼称を光宮(てるのみや)といった。
高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧名であるが、宣仁親王が有栖川宮家の祭祀を継承したのには故がある。1913年(大正2年)、有栖川宮十代威仁親王が後嗣を持たぬまま危篤となり、また皇族の養子が禁ぜられたため、有栖川宮家が断絶しかけた。しかし、幟仁・熾仁・威仁三親王の功労に鑑んだ大正天皇が、威仁親王の死去に先立ち、特旨をもって皇子宣仁に高松宮を与えたことで、宮家の祭祀は受け継がれた。その時から、威仁親王の外孫にあたる喜久子(1911年生れ)と、宣仁親王との婚姻が約束されたという。
1930年(昭和5年)2月4日、徳川喜久子と婚儀。1932年(昭和7年)12月、海砲術学校高等科を卒業し、1942年(昭和17年)11月、海軍大佐に昇る。
宣仁親王はスポーツ、国際親善、厚生、美術工芸など、多岐にわたる活動を行った。
1987年(昭和62年)2月3日、肺癌の為に薨去。子女はいなかった。没後、1991年(平成3年)に宮邸の職員が発見した日記(大正十年~昭和二十二年)が喜久子妃の強い希望で「高松宮日記」として出版された。