Guajara in other languages: Spanish, Deutsch, English, French, Italian ...



足尾鉱毒事件

足尾鉱毒事件あしおこうどくじけん)は、19世紀から21世紀栃木県群馬県で起きた公害事件。日本の公害の原点ともいわれる。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。

Table of contents
1 概要
2 対策
3 鉱毒反対運動
4 植林

概要

現在の栃木県足尾町で銅が産出するのは江戸時代から知られていたが、1877年に古河市兵衛の経営になり、1885年までに大鉱脈が発見され、足尾は東アジア一の銅の産地となる。銅は当時の日本の輸出品となったが、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は亜硫酸ガス)と鉱毒(主成分はイオンなどの金属イオン)により、付近の環境は大きな被害を受けた。

鉱毒ガスにより足尾近辺の山は禿山となり、木を失った土地は次々と崩れていった。この崩壊は2004年現在も続いている。なお、19世紀にここで山火事があったことから、山がはげたのは山火事が原因だという主張もされている。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。このため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、カスリン台風襲来時は洪水の主原因となった。

鉱毒による被害はまず、1880年代、渡良瀬川の魚の大量死という形で現れた。この時代、栃木県は渡良瀬川の魚の売買を禁じた。次に、渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。これに怒った農民らが数度に渡り蜂起した。田中正造はこのときの農民運動の中心人物として有名である。

1890年の農科大学(現在の東京大学農学部)助教授古在由直による分析によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸。

1973年までに足尾の銅は掘りつくされ、公害は減少した。ただし、精錬所の操業は1980年代まで続き、鉱毒はその後も流されたとされる。しかし、どの時代も科学的な分析がほとんどされていないため、公害の内容はあまり明らかにはなっていない。

1899年の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒による死者・死産は推計で1064人。主に鉱毒水が井戸水に混入したことによるものとされる。ただし、これは鉱毒当事者の一方的な情報であることに注意する必要がある。

対策

金属イオンによる鉱毒は、排水をいったん沈殿させることによりほぼ無害化されるため、1897年、政府は足尾銅山に沈殿池を作ることを命じ、命令どおりに作られたた。しかし、この池は狭く、雨が降るとあふれるため役に立たなかった。

この時代は、吾妻村民らによる鉱毒の記録集を発売禁止にするなど、言論封じが主な対策であった。

鉱毒を沈殿させるため、栃木県、群馬県、埼玉県茨城県の境に、渡良瀬遊水地が作られた。ほぼ全域が栃木県に属する。この土地は元々、農業を主な産業としていた栃木県下都賀郡谷中村であった。谷中村には田中正造などが住み、公害運動の拠点となっていたことから、運動をつぶすための決定だといわれた。谷中村はこれに激しく抵抗し、隣の藤岡町との合併案を否決した。このため、法律上、合併に必要な谷中村議会の議決が行われていない状態が続いている。谷中村は1906年に強制廃村となり、藤岡町に合併された。また、渡良瀬川の河川工事もこの時代に行われた。

1947年のカスリン台風以降、政府は渡良瀬川全域に堤防を作った。この堤防工事は20年ほどかかった。堤防の竣工以後、渡良瀬川では洪水はない。

土砂の流出を防ぐため、足尾町に松木ダムが作られた。しかし、土砂の流出があまりに多く、松木ダムは竣工と同時にその役目を終えた。松木ダムは既に土砂で満杯であり、これ以降に流出した土砂はそのまま下流に流れた。

土砂の流出と、鉱毒の沈殿を主目的にした多目的ダム、草木ダムが渡良瀬川上流の群馬県勢多郡東村に作られた(1977年竣工)。そのままでは土砂がたまり松木ダムと変わらなくなるので、このダムは定期的に底の土砂を下流に流すしくみになっている。常時水質検査も行われているが、竣工が銅山の閉山後だったこともあり、異常な値は検出されていない。鉱毒はおさまったが、土砂の流出はまだ続いている。

鉱毒反対運動

明治期

鉱毒反対運動は、現在の栃木県佐野市と藤岡町で盛んであった。最初の運動は、
1890年、栃木県吾妻村(現在の佐野市吾妻地区)議会が足尾鉱山の操業停止を求める決議を採択。佐野出身の衆議院議員田中正造は1891年以降、たびたび国会で鉱毒の質問を行い、鉱毒の害は全国に知れ渡った。この際、古河側が農民に若干の示談金を与えるかわりに、それ以前、以後の鉱毒被害の請求権を放棄させた。このため、この後には鉱毒問題はないという主張もされる。しかし、このとき示談金の受け取りを拒否した農民もおり、鉱毒反対運動はこの後も続いた。

この運動が最も盛んになったのは、1896年の洪水以降で、この年、現在の館林市にある雲龍寺に、栃木・群馬両県の鉱毒事務所が作られた。ここは、被害農民の集結所となった。この後、東京への陳情に出かける農民と警官隊との衝突も起きた。運動を食い止めるため、政府は運動のさかんだった谷中村の廃村を決し、1907年強制破壊が行われる。その後、村民は主に隣の藤岡町や群馬県板倉町にあたる地域、下都賀郡の他の町村、古河町(現在の古河市)、那須郡、北海道常呂郡佐呂間町に移住させられた。この移住は強制ではなかった。また、元谷中村民以外も一緒に移住したが、実質的には元谷中村民救済の意味が強かった。なお、佐呂間町にある「栃木」という地名は、この移住の際につけられたものである。移住を拒否し、破壊された谷中村の自宅跡に住み続けた元村民もいる。ただし、大正期までには全員が村を脱出した。

鉱毒反対運動は、谷中村の廃村や、渡良瀬川の大工事による洪水の減少などによりしだいに弱まり、田中正造が1913年に没すると、運動は弱体化しほぼ消滅した。

昭和期

1958年に渡良瀬川の土手が決壊。群馬県山田郡毛里田村(現在の太田市毛里田)に渡良瀬川の水が入り込んだ。この後この地で鉱毒反対運動がさかんになる。1971年にこの地で収穫された米からカドミウムが検出され、直後、農民らは80年分の賠償金120億円を古河鉱業に請求した。1972年群馬県は、米の汚染は足尾銅山の鉱毒が原因と断定。農民971人が古河鉱業に賠償金総額39億円の支払いを求めた。

1972年、群馬県は毛里田地区の土壌汚染は足尾銅山の鉱毒が原因と断定。

1974年、調停が成立。古河鉱業は15億5000万円を支払った。ただし、古河鉱業側は、銅の被害のみを認め、カドミウムについては認めなかった。

植林

公害により荒廃した近隣の環境回復のため、植林が40年近く続けられている。




Wikipedia - All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.

Tagoror dot com  -  Legal Information  -  Contact us