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1599年5月、父元親が亡くなると、旧領を相続するが、翌年、関ヶ原の役がおこる。当初、盛親は徳川家康率いる東軍に組しようと考えたが、毛利輝元、石田三成率いる西軍に進路を阻まれ余儀なく西軍に組した。盛親は西軍の主力部隊となって東軍に組する各城を落としながら関ヶ原に向かったが、関ヶ原では徳川家康に内応する吉川広家が前に居座って動かず、実際の戦闘には加わることが出来ないまま西軍は壊滅した。
なんとか土佐に逃げ帰った盛親は、親しい関係であった徳川家の重臣井伊直政を通じて家康に謝罪しようが、勘違いから兄津野親忠を殺害してしまい、家康の怒りを招き領土没収となってしまった。 その後、盛親は京都へ送られ謹慎生活を送る事になったが、1614年秋、豊臣秀頼からの招きで大阪城に入城した。
大阪冬の陣では真田幸村などの活躍で、盛親に出番はなかったが、大阪冬の陣では豊臣家重臣の木村重成らとともに2万の主力軍勢で徳川家の藤堂高虎と戦った。(八尾の戦い)
この戦いでの長宗我部軍は目覚しい活躍をしめし、藤堂軍を壊滅寸前にまで追いこむが、敵に援軍が駆け付け木村重成が戦死、他の諸部隊も壊滅したため、撤退を余儀なくされる。
勝利を諦めた盛親は次の日の大阪城近郊での最終決戦には参加せず、大坂城の守りについていたが、敗北が決定的になると「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し再起を図って逃亡した。だが運は盛親に味方せず、5月11日京都八幡近くの葭原に潜んでいるところを、蜂須賀家の家臣に見つかり捕らえられる。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。