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| Table of contents |
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2 選手成績 3 監督成績 4 プロ入り以前 5 プロ入り以後 6 その他 7 長嶋の子女 |
千葉県出身。佐倉第一高校から立教大学に進む。野球部では砂押邦信監督の下、猛練習を重ね、正三塁手となる。
同期の杉浦忠投手(のち南海ホークス)、同じく主将を務めた本屋敷錦吾内野手(同阪急ブレーブス・阪神タイガース)とともに「立教の三大スター」と呼ばれた。
長嶋は東京六大学リーグにおいて1956年春季・1957年秋季には首位打者を獲得。また1955年秋季から1957年秋季まで5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれている。
1957年、東京六大学リーグのシーズン記録となる8本塁打を放つ。プロ入りが確実視されており、特に大学の先輩大沢啓二の所属する南海ホークスは、大沢を通じて熱心に入団を勧誘していた。しかし長嶋は一転、巨人軍入団を決めた。背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた3。契約金は1,800万円であった。
1958年、開幕戦の対国鉄スワローズ戦で金田正一投手と4回対戦し4打席連続三振を喫してデビュー。しかしシーズン途中から川上哲治に代わる4番打者となり、チームの優勝に貢献。最終打撃成績は、本塁打29本、打点92を記録し二冠王。打率は2位であったが.305を記録、盗塁も37と活躍し、新人王に選ばれた。
翌1959年6月25日、後楽園球場で行なわれた対大阪タイガース戦は、日本プロ野球史上初の天覧試合であった。長嶋は4対4で迎えた9回裏、タイガースの2番手村山実投手からサヨナラホームランを放った。村山は生涯、このエピソードについて問われるたび「あれはファウルだった」と言い続けた。なお、この試合では新人王貞治も本塁打を打っている。これがONアベックホームラン第1号である。
プロ選手としての長嶋は、その打撃力のみならず三塁手としての守備も注目された。長嶋はライン際の打球の処理に難点があるため、欠点をカヴァーすべく三塁線に近く位置しており、遊撃手の広岡達朗(のちに黒江透修に代わる)は長嶋の分まで守備範囲を広めにとっていた。しかし長嶋は、時に通常の守備範囲を超え、広岡の取るべき打球にまで反応して捕球を試みる場合も多かった。このため長嶋の守備は「簡単なゴロを難しく見せる」と評され、堅実さでは三宅秀史(同時代の阪神タイガースにおける正三塁手)に軍配を上げるファンも少なからずいた。しかし、長嶋の派手なアクションをまじえた守備は、多くの観客を喜ばせた。その意味で、彼に守備はまさしく「プロフェッショナル」と呼ぶべき「ショウマンシップ」を具現していた、といえよう。
日本選手権シリーズでは3回の最優秀選手賞を獲得。1965年から1973年までリーグ・日本選手権ともに9連覇を達成したジャイアンツを王貞治とともに代表する選手であった。
また、1964年2月12日には主演映画『ミスタージャイアンツ 勝利の旗』(佐伯幸三監督・東京映画)が公開された。
1974年10月14日、選手を引退。このとき「我が巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残したことは有名である。
長男は後にヤクルト→巨人で活躍した長嶋一茂。テレビ朝日の長嶋三奈記者(代表作品:ニュースステーションスポーツキャスター、熱闘甲子園、長野オリンピック中継、熱闘スポーツM18)は長女に当たる。
略歴
選手成績
監督成績
プロ入り以前
プロ入り以後
長嶋の守備
その他
長嶋の子女