赤穂浪士(あこうろうし)は、江戸時代に吉良上野介邸討ち入りという暗殺事件を実行したことで知られる武士グループ。赤穂義士(あこうぎし)とも、人数から四十七士(しじゅうしちし)ともいう。
もとは、取りつぶしとなった赤穂藩の旧家臣である。
彼らは、取りつぶしの原因となった藩主(浅野内匠頭)の傷害事件に関して、被害者(吉良上野介)側にも落ち度があるとして両者の処断を主張していた。
しかし、この主張は幕府当局によって受け入れられなかったため、私刑として吉良上野介暗殺を計画し遂行した。
討ち入りは成功し、江戸では旧主への忠義を遂げた義士であるとして大きな人気を呼んだ。
しかし、幕府は法治主義的な視点から彼らに切腹を命じた。
庶民のあいだではこの措置に対する不満は大きかったようであり、のちに浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』など彼らを題材にとった物語(義士物)が成立することになる。
特に、仮名手本忠臣蔵の成立以降はこれらの作品を総称して忠臣蔵と呼ぶようにもなった。
赤穂浪士は泉岳寺に葬られ、泉岳寺では現在も毎年討ち入りの日に義士祭を催している(討ち入りの日は旧暦12月14日(現在の時法で言えば15日未明)であるが、義士祭は新暦12月14日に行われる)。
赤穂浪士の一覧
- 大石内蔵助良雄 おおいしくらのすけよしお(よしたか)
- 大石主税良金(内蔵助の長男) おおいしちからよしかね
- 原惣右衛門元辰 はらそうえもんもととき
- 片岡源五右衛門高房 かたおかげんごえもんたかふさ
- 堀部弥兵衛金丸 ほりべやへえかなまる(あきざね)
- 堀部安兵衛武庸(弥兵衛の養子) ほりべやすべえたけつね
- 吉田忠左衛門兼亮 よしだちゅうざえもんかねすけ
- 吉田沢右衛門兼貞(忠左衛門の長男) よしださわえもんかねさだ
- 近松勘六行重 ちかまつかんろくゆきしげ
- 間瀬久太夫正明 ませきゅうだゆうまさあき
- 間瀬孫九郎正辰(久太夫の長男) ませまごくろうまさとき
- 赤埴源蔵重賢 あかばねげんぞうしげかた
- 潮田又之丞高教 うしおだまたのじょうたかのり
- 富森助右衛門正因 とみのもりすけえもんまさより
- 不破数右衛門正種 ふわかずえもんまさたね
- 岡野金右衛門包秀 おかのきんえもんかねひで
- 小野寺十内秀和 おのでらじゅうないひでかず
- 小野寺幸右衛門秀富(十内の養子) おのでらこうえもんひでとみ
- 木村岡右衛門貞行 きむらおかえもんさだゆき
- 奥田孫太夫重盛 おくだまごだゆうしげもり
- 奥田貞右衛門行高(孫太夫の養子) おくださだえもんゆきたか
- 早水藤左衛門満尭 はやみとうざえもんみつたか
- 矢田五郎右衛門助武 やだごろうえもんすけたけ
- 大石瀬左衛門信清 おおいしせざえもんのぶきよ
- 磯貝十郎左衛門正久 いそがいじゅうろうざえもんまさひさ
- 間喜兵衛光延 はざまきへえみつのぶ
- 間十次郎光興(喜兵衛の長男) はざまじゅうじろうみつおき
- 間新六郎光風(喜兵衛の次男) はざましんろくろうみつかぜ
- 中村勘助正辰 なかむらかんすけまさとき
- 千馬三郎兵衛光忠 せんば(ちば)さぶろべえみつただ
- 菅谷半之丞政利 すがやはんのじょうまさとし
- 村松喜兵衛秀直 むらまつきへえひでなお
- 村松三太夫高直(喜兵衛の長男) むらまつさんだゆうたかなお
- 倉橋伝助武幸 くらはしでんすけたけゆき
- 岡嶋八十右衛門常樹 おかじまやそえもんつねしげ
- 大高源五忠雄 おおたかげんごただお(ただたけ)
- 矢頭右衛門七教兼 やとう(やこうべ)えもしちのりかね
- 勝田新左衛門武尭 かつたしんざえもんたけたか
- 武林唯七隆重 たけばやしただしちたかしげ
- 前原伊助宗房 まえばらいすけむねふさ
- 貝賀弥左衛門友信 かいがやざえもんとものぶ
- 杉野十平次次房 すぎのじゅうへいじつぎふさ
- 神崎与五郎則休 かんざきよごろうのりやす
- 三村次郎左衛門包常 みむらじろうざえもんかねつね
- 横川勘平宗利 よこかわかんべいむねとし
- 茅野和助常成 かやのわすけつねなり
- 寺坂吉右衛門信行 てらさかきちえもんのぶゆき