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赤瀾会

赤瀾会せきらんかいRed Wave's Society, the)(1921年4月24日 - 1923年3月8日)は、日本で初の女性による社会主義団体。「赤瀾」とは赤い波(さざなみ)の意味。名称は、社会主義運動の流れに小さなさざなみ程度は起こせるのではないかということでつけられた。一部のインテリ女性による運動ではなく、労働者階級の女性にも呼びかけをしたのが特徴。さざなみどころか、大正昭和の社会主義運動と女性解放運動に大きなうねりを呼び起こす役割を担った。前身は、時計工組合とアナキスト系の思想家グループ北風会の人々が集まって作った自主的な研究グループ、北郊自主会。

Table of contents
1 赤瀾会の軌跡
2 関連年表
3 文書・エピソードなど
4 関連文献

赤瀾会の軌跡

結成

1921年4月21日に「私達は私達の窮乏と無知と隷属に沈淪(ちんりん、深く沈むこと)せしめたる一切の圧制に対して、断乎(だんこ)として宣戦を布告するものであります」と宣言し、これを綱領に定めて結成された。設立世話人は、九津見房子(30歳)・秋月静枝(年齢不詳)・橋浦はる子(22歳)・堺真柄(18歳)の4人で、顧問格として山川菊栄(30歳)と伊藤野枝(26歳)が加わった(年齢はいずれも結成当時のもの)。

参加者

参加者はほとんどが男性の社会主義者を身内にもつ女性で、設立当初は社会主義同盟員の家族を中心に42名だが大部分は名簿上の会員で、実働は十数名と言われている。会の発足は、治安警察法5条5項(女子の政治結社加入禁止)の規定で、前年に発足した社会主義同盟に女性が参加できなかったからだと言われている。

中心的人物

運動と自然解消まで

結成直後の第二回メーデー(1920年5月1日)に畳三分の二くらいの大きさで「赤瀾会」の字を書いた旗と、それよりひとまわり小さな RW (Red Waveの略)のロゴマークの旗(いずれも黒地に赤く縫いつけた)を掲げたデモで華々しく登場、労働者から大いに注目を浴びたが、警察と大立ち回りを演じて全員検束、マスコミに大々的に報道されジャーナリズムの恰好のえじきとなり、翌日の新聞各紙で社会面トップ記事に取り上げられて有名となる。とくに堺利彦の娘である18歳の堺真柄は、その若さゆえにマスコミの寵児となった。当時の一般人には、メーデーへの参加は検束を覚悟の上のもので、女がデモに参加することなど夢にも考えられなかったからであった。翌年のメーデーのデモでは、全国各地で女性の参加者が見られるようになる。のちに有名となる綱領は、前年、女学校を卒業したばかりの真柄によって書かれた。

会は、街頭活動を活発に行ない、以下のように講演、講習を開催。

社会主義の立場で女性解放思想の普及に努めたが、リーダー格の九津見房子の恋愛による東京からの離脱(8月か9月頃)、高津多代子への弾圧お目出度誌事件(8月31日検束、9月15日再拘引、12月7日に証拠不十分で釈放)、10月12日の軍隊に反戦ビラを配る「暁民共産党事件」(軍隊赤化事件)容疑で堺真柄、仲宗根貞代が収監(12月6日入獄、翌1月9日保釈出獄、1923年出版法違反で禁固4ヶ月が確定し下獄)されるなど、おもなメンバーの離脱・検挙・起訴・投獄によって壊滅状態となり、自然解消に向かうこととなった。

新婦人協会との確執

赤瀾会メンバーは前年に発足した新婦人協会平塚らいてう、市川房枝、奥むめおらが参加)に強い対抗意識を持っていた。婦人参政権(治安警察法5条改正が当面の課題)と花柳病(性病)男子の結婚を制限するという新婦人協会の運動課題はブルジョワ的、中産階級的で、生ぬるいと感じられたからだという。エリート女性進出による男性を見下した参政権論に反発を感じる旨の発言を、メンバーのひとりであった堺真柄(近藤真柄)が『わたしの回想(下)』書き残しており、また山川菊栄は、雑誌『太陽』大正10年7月号で『新婦人協会と赤瀾会』と題する文章を発表し、協会の活動を「労して益なき議会運動」「ブルジョア婦人の慈善道楽」と批判した。現行社会制度の枠の中だけで女性解放を唱えて運動するのは無意味だというのである。

日本初の国際女性デー集会

残った会員に新しい会員を加え、1923年3月8日に日本初の国際婦人デー(現・国際女性デーInternational Women's Day)の集会を開催。集会そのものは警察に解散命令を受けるが、社会主義婦人運動はこの日を期して結成された山川菊栄らの八日会に引き継がれた。集会の主催は、形の上では赤瀾会となっているが、実質は八日会であると言ってよい。

関連年表

文書・エピソードなど

趣意書

 とりたてて私達から御披露申上げるほどのこともございませんが、このたび私達赤色婦人の会をつくり、赤瀾会と名付けて、いよいよ別紙の綱領、規約を公にして、出陣することになりました。すべての偏見を捨てて、よろしく御引回しのほどお願いいたしたく右謹んでご報告申し上げます。

一九二一年四月

赤瀾会 世話人
九津見房子
秋月静枝
橋浦はる
堺真柄

綱領・規約

綱領
私達は私達の窮乏と無知と隷属に沈淪せしめたる一切の圧制に対して、断乎として宣戦を布告するものであります。

規約
一、本会を赤瀾会と名付け、当分の間事務所を麹町区元園町一の四四におきます。
一、入会者は本会の綱領および規約を承認し、確実なる同士の紹介ある方に限ります。
一、本会は毎月第一、第三日曜に事務所に於て例会を開きます。例会は研究と相談を主とします。
一、会員二名以上の希望により臨時会を開くことができます。
一、会員の間に不審を認められた人に対しては審議の上除名を行うことができます。
一、会を維持するため会員は一ヶ月三〇銭を納めることにします。

『婦人に檄す』

 メーデーは私達労働者の虐げられたる無産者の日であります。婦人と労働者とは幾十世紀の間、同じ圧制と無智との歴史を辿ってきました。然(しか)し黎明(れいめい)は近づきました。ロシアに於(おい)て先ず鳴らされた暁鐘は刻一刻資本主義の闇黒を地球の上から駆逐して行く勝利の響きを伝えて居ります。姉妹よお聴きなさい、あの響きの中にこもる婦人の力を、さあ私達の力のあらん限りをつくして兄弟と共に日本に於ける無産者解放の合図の鐘をつこうではありませんか。覚めたる婦人よ、メーデーに参加せよ。

 赤瀾会は資本主義社会を倒壊し、社会主義社会建設の事業に参加せんとする婦人の団体であります。入っては家庭奴隷、出でては賃金奴隷以外の生活を私達に許さぬ資本主義の社会、私達の多くの姉妹を売笑婦の生活に遂う資本主義の社会、その侵略的野心のために私達から最愛の父と、子を、愛人と兄弟を奪って大砲の的とし、他国の無産者と虐殺させ合う社会、その貪婪(どんらん)な営利主義者の為めに私達の青春を、健康を、才能を、一切の幸福を、そして生命をさえも蹂躙(じゅうりん)し犠牲にし去って省みない資本主義の社会――赤瀾会はこの惨虐無耻な社会に対して断固として宣戦を布告するものであります。

 解放を求むる婦人よ、赤瀾会に加入せよ。

 社会主義は人類を資本主義の圧制と悲惨とから救う唯一の力であります。正義と人道とを愛する姉妹よ、社会主義運動に参加せよ。

五月一日

麹町元園町一ノ四四
赤瀾会

1921年5月1日、芝公園を出発したメーデーのデモ行進が新橋にさしかかったところへ飛び入りで参加した赤瀾会のメンバー十数名。デモに参加したメンバーはひとり残らず検束されたが、このビラの文面は、デモ参加を呼びかける目的で山川菊栄が執筆した全文。

『ふたたび婦人に檄す』

 メーデーは私たち苦しめられたる貧乏人の日であります。覚めたる婦人よ、メーデーに参加せよ。そうして自分たちの力のあるかぎりをつくして、私たちの自由な世界をつくろうではありませんか。

 赤瀾会は、私たちからすべての幸福を、うばった資本家に対してあくまでたたかうためにたった、社会主義婦人の団体であります。こんな社会から一時も早くのがれようとする覚めたる婦人よ、赤瀾会に加入して共に運動をしようではありませんか。

五月一日

麹町元園町一ノ四四
赤瀾会

山川菊栄の『婦人に檄す』を要約してつくった第二次ビラ。

仲宗根貞代の啖呵

  • 巡査:「女のくせにメーデーなんぞに参加して、そのザマはなんだ。お前らは子の守りくらいでちょうどよいのに」
  • 貞代:「そのザマはなんだと威張るけど、男のくせに資本家の飼い犬になっていながら、なんの自覚もなく、偉そうに反り返っているそのザマはなんだ」

1920年5月1日のメーデーで検束拘留された仲宗根貞代(旧姓・緒方)が上野警察署で取り調べの巡査を相手にした応酬。

『婦人の反抗』

伊藤野枝著

【一】

 五月一日の夕刊、および翌日の新聞紙は一斉に、警官がメーデーの行列に参加した婦人たちに対して働いた暴行を報道している。そしてことに、五月二日の読売には、当日上野精養軒裏で赤瀾会員が巡査らに髪の毛をつかまれ、襟をとらえられ、引きづられながら、なぐられ蹴られしている光景をみていた、アドヴァタイザ婦人記者の談話を載せている。
 『日本の警官は何というひどいことをするのでしょう? あんな繊細(かよわ)い婦人をとらえて打ったり蹴ったりするとは――また、群集(群衆)は婦人が侮辱されているのに傍観しているとはなんということでしょう? 私までが大なる辱(はずかし)めを受けているように感じます。日本は野蛮な国です、野蛮な国です』と、眼を釣り上げボンネットやスカートをふるわしていた。『私は警官が群集よりも多かったので、何をするのかと思っていたら、それは群集を打ったり蹴ったりするのだということがわかりました。私の国ではあんなことはありません。』

【二】

 私はこの話を外国への恥だなどと問題にするのではない。警官が民衆を打ったり蹴ったりするのが日本ばかりだとは思いもせず、また、ビイズレー女史のようにアメリカやヨーロッパの文明国でそんなことが決してないなどとも思わない。お互いさまにどの国の政府でもしていることだくらいは知っている。
 赤瀾会の会員にしても、当日のあの警官の非道はある程度までは覚悟の上だったにちがいない。それでなくても、婦人だからといって手びかえされるようなことがあっても、みんなで、男の同志たちの受ける侮辱や暴行を傍観していることはできないに違いない。そして、やはり進んで同じ苦痛を受けるに違いない。
 巡査どもにいわせれば『女のくせに余計なところに出しゃばるからウンとこらしめておかねば癖になる』というにちがいない。しかし、いかに官僚思想の芽をそう容易につみとってしまえるものと信ずることは出来ないに違いない。事実赤瀾会の誰一人それにひるんだものはない。

【三】

 しかし、若い婦人が群衆の面前で、髪を乱し、衣紋(えもん)をくづして巡査に引きづられるということが、どれほど痛ましい恥辱を与えるであろう? 弱い精神の持主では到底忍べることではない。が、今はそれをも当然のこととして自分の心持を納得させねばならない。
 この悲痛な理知の眼をみはった諦めを奴隷の諦めと間違え、何時(いつ)までもそれが続くものだと思ったら大間違いだ。為政者らは一方にこれを決して間違えず、常におそれながら彼等の政策はつねにそれとは反対の行為に出ている。そしてそこから、ありがたくない結果が生まれている。ことに婦人の場合は男子のそれよりも一層彼等にとっては恐るべき結果を持ってくることは、今から断言しておいてもいいくらいだ。

【四】

 婦人は一体に気がせまい上に、社会運動にでもたづさわろうとする人々は非常にものを感じやすい性格の人が多く、かつ、かなり一本調子な強い熱情の持主であり、そして、自分自身ではどれ程ひどいことをでも忍ことが出来ても、他人の上に加えられる無法を傍観していることの出来ないという弱点を持っている。そしてそこで往々、自分の心の上に加えてきた、自我的な理知の圧力をはね返す。その時こそ彼女は、どんな大事をでも平気でし遂げる。彼女は世間の批難(非難)くらいは勿論(もちろん)、法律の網の真中にでも飛び込んで行くし、絞首台の上へでも光栄として上り得るに違いない。
 赤瀾会に対する圧迫も、今後その行動につれていよいよ辛辣になるに違いない。が、為政者等は、婦人に対する侮辱のついでに、この婦人の欠点をもよくその考慮の中に入れておく必要のあることを警告しておく。

メーデーに参加しなかった伊藤野枝が書き、第二次『労働運動』第十二号・1921年6月4日号の一面トップに掲載された記事の全文。

婦人問題講演会演目

九津見房子  開会の辞
藤森成吉    日本の女性の自覚
秋田雨田    生物の発生と婦人
石川三四郎  予が婦人観
堺真柄      旗持ちとなりて
伊藤野枝    婦人問題の難関
守田有秋    革命後の独乙婦人

『東京朝日新聞』1921年6月12日付報道。ほかに山川菊栄や仲宗根貞代の演説もあったという。

大杉栄の発言

赤瀾会事務所における夏期講習会(7月19日)での大杉栄の発言より抜粋。伊藤野枝の家事・育児を指して言ったと推測される。

『新婦人協会と赤瀾会』

山川菊栄著『新婦人協会と赤瀾会』《雑誌『太陽』1921年7月号》より抜粋

関連文献

読書案内

一般向けでかつ一冊にまとまっている本は、現在のところ江刺昭子が書いた『覚めよ女たち 赤瀾会の人びと』以外にはなく、これが決定版といえる。最初の章で赤瀾会の概略を紹介し、続く章において、赤瀾会メンバーの一人ひとりを追いかける評伝となっている。きめこまかく取材し、メンバーの個性を活き活きと描いている点は特筆に価する。ただし問題点として、江刺昭子の赤瀾会に対する思い入れは否定できない。また、当事者の証言として近藤真柄(堺真柄)の自伝『わたしの回想』や鈴木裕子による聞き書きも貴重な証言となっているが、全体像をつかむにはやはり貧弱であろう。

文献





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