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豊臣氏の「豊臣」は氏(うじ)であって、「織田」(本姓は平朝臣)や「徳川」(本姓は源朝臣)などといった名字(みょうじ)と性質を異にすることに注意しなければならない。豊臣氏は秀吉にとってあくまで本姓であり、彼の名字は羽柴である。
卑賤の出自でこれといった一門衆家臣団を持たない秀吉は、有力家臣である大名たちに豊臣朝臣の氏姓や羽柴の名字を与え、豊臣朝臣羽柴何某と名乗らせることで大名たちを自らの擬制的な一族に取り込もうとしていった(この点で豊臣政権は、徳川や松平の名乗りがごく一握りの大名にしか許されなかった江戸幕府と好対照である)。
のちに徳川氏の覇権が確固たるものになっていく過程の中で、豊臣朝臣を与えられ、羽柴氏を名乗ることを許されていた大名たちは、豊臣朝臣の本姓を捨て、羽柴を公称しないようになっていった。江戸時代を通じて豊臣朝臣を本姓とし続けた大名家は、秀吉の夫人北政所おねの実家である木下氏だけである。木下氏は明治維新後に本姓と名字が法的に一本化されて現在見られる姓のあり方に統合されていくまで、本姓を変えることはなかった。
氏族としての豊臣氏は、すなわち秀吉の兄弟姉妹および彼らの子孫たちからなる一族であるといえる。すなわち、以下の人々である。
氏族としての豊臣氏の歴史
落胆した秀吉は甥秀次を後継者と定め、1591年に関白職を譲る。しかし秀吉は全権を譲らず、太閤と呼ばれつつ豊臣家直轄領と軍権を掌握しつづけたので、次第に二重政権の矛盾が表面化してきた。しかも1593年に秀吉に再び実子秀頼が生まれ、秀吉と秀次の対立は決定的に悪化してしまった。1595年、秀吉は秀次を高野山に追放し、切腹させる。これによって二重政権は解消され、豊臣政権は再び秀吉のもとに一元化されるが、政権の正統性の拠り所である関白職は豊臣家から永遠に失われてしまった。
1598年に秀吉が死ぬと、後事を託された有力大名の中から徳川家康が台頭し、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成ら豊臣政権擁護派の諸大名を倒し、覇権を打ちたてる。家康は1603年、征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、1605年には将軍職を子の徳川秀忠に譲って徳川政権の正統性を確立していき、豊臣氏は政権の座から完全に滑り落ちてしまった。
しかし、徳川政権の確立していく様を見ても豊臣秀頼はとうとう一大名として徳川将軍に臣従することを認めなかった。これに後顧の憂いを感じた家康は1614年、大坂冬の陣を起こし、さらに翌年の大坂夏の陣で大坂城を落とし、秀頼を自殺させる。秀頼の遺児国松は、同じ1615年(慶長二十年)五月二三日(グレゴリオ暦1615年6月19日)、徳川氏の手によって殺され、ここに秀吉の興した豊臣氏は滅亡した。
なお、国松は薩摩に逃れて島津家にかくまわれ、豊後国日出藩木下家の分家である交代寄合木下家の祖、木下延次になったのであるという異説がある。その子孫は現在豊臣の姓を名乗っているという。