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一定の線形と幅員を有し、表層・基層・路盤などの舗装体と、それらを支える路床とからなる。また、道路と一体となって利用される橋やトンネル、横断歩道橋や横断地下歩道などの施設も含む。最も基本的な交通施設であり、自動車交通の発達に伴い近代化された。
| Table of contents |
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2 高速道路 3 日本の道路の歴史 4 道路交通 5 関連項目 6 外部リンク |
道路の分類
道路法では国道(一般国道と高速自動車国道)・都道府県道・市町村道(特別区道を含む)のみを「道路」としているが、一般にはそれ以外のものも「道路」と呼ばれる。道路法の規定によらない道路には、以下のものがある。
道路法に基づく道路は、管理主体による分類の他に、道路構造令に基づいて、道路の規模により第一種から第四種に分類され、それぞれはさらに、計画交通量によって第一級から第五級に分類(交通量が少ないほど級の数字が増える)される。 道路の建設を計画する際には、区間ごとにどれに分類するかを決定し、それに基づいて設計が行われる。
高速道路
自動車等が高速で走れるような構造になっている道路を高速道路という。
高速道路のうち、高速自動車国道および一般国道の自動車専用区間の一部は日本道路公団が建設・管理を行う。首都高速道路・阪神高速道路は都府県道または市道であるが、首都高速道路公団・阪神高速道路公団がそれぞれ建設・管理を行う。これらの3公団に本州四国連絡橋公団を加えて道路関係4公団という。
日本の道路の歴史
古代
人々が生活する場所には、自然発生的に道ができた。それ以外の場所では、「獣道」が次第に踏み固められ、川沿いや尾根伝い、低い峠などに主要な道路が形成されて行った。日本書紀の神武天皇東征の件りで、河内国から大和国に兵を進めた様子を書いた記述、「皇師兵を勅へて歩より龍田に赴く。而して其の路嶮しくして、人並み行くを得ず。」が、日本の書物の中での道路についての最も古い記述であるとされている。当時の道路が、人が2列で行進することができないほど狭いものであったことが判る。
その後、計画的な道路が作られるようになった。日本書紀の推古天皇21年(613年)11月の記事に、「難波より京に至る大道を置く」とあり、これが日本における道路整備の最初の記述とされている。当時の京は飛鳥にあった。
646年、孝徳天皇の「改新の詔」により、地方に国司・郡司を置き、中央と地方の官庁とを結ぶ「駅路」が整備されることになった。駅路には30里(約16km)毎に駅が設けられ、輸送機関として駅夫・駅馬が置かれた。駅路は京(畿内)を中心に放射状に作られ、特に山陽道・東海道・東山道・山陰道・北陸道・西海道・南海道の7路線を「七道駅路」として重点的に整備した。これら七道の呼称は、道路を指すだけでなく、その道路によって結ばれる国の総称としても用いられた。この内、京と太宰府とを結び最重要視されていた山陽道を「大路」、東国へ向かう東海道・東山道を「中路」、その他を「小路」と呼んだ。 これらの道路は、小さな谷は埋め、峠付近は切り通しにするなどして、できるだけ直線的に平担になるように作られていた。この傾向は、ローマ帝国におけるローマ街道にも見られる。
中世
源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、山陽道に代って東海道が重要視されるようになった。しかし、この時代には、関東各地と鎌倉とを結ぶ鎌倉街道が作られた他は、大規模な道路整備は行われていない。
戦国時代には、各大名が領内の道路の整備を行い、特に武田信玄が積極的に道路整備を行っているが、軍事的な理由などから全国的な道路整備は行われなかった。そんな中、織田信長は全国統一を目指して道路整備の方針を制度化し、この思想が江戸幕府に引き継がれることになる。
江戸時代
江戸時代に入り、江戸幕府は全国的な道路整備を行った。その中心となるのが、幕府直轄の五街道である。五街道は4代将軍徳川家綱の時代に定められたもので、江戸の日本橋を起点とする東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の5つの街道のことである。五街道に繋がる街道(附属街道)のうち主要なものを「脇街道」または「脇往還」という。五街道とその脇街道で、本州中央部のかなりの地域を網羅していた。五街道沿いには原則として天領・親藩・譜代大名が配置された。また、交通上重要な箇所には関所や番所を置いた。
五街道と脇街道は幕府の道中奉行が直接管理していた。それ以外の街道は勘定奉行が管理をしていたが、道中奉行のような直接管理ではなく、沿道の藩に実際の管理を行わせていた。これは、五街道・脇街道以外の街道が外様大名の大藩の領地であることにも関係がある。
江戸時代の街道には、古代の駅路などに比べて、一般民衆の通行も多くなった。旅人は道路を見てその藩の状況を判断するからということで、各藩は道路の整備に気を配っていた。また、当時は、馬や駕籠は使われていたものの、交通の大半が徒歩であったことから、道路の傷みは今日ほどはひどくなかった。
平戸や長崎には、オランダ人の手によって、石畳による日本初の舗装道路が作られた。
(以下スタブ)
明治・大正時代