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阿毎はアメ、多利思比孤はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)の意である。阿輩?弥はオホキミで、大王をいう。
第一回 (600年)
まず第一回の派遣は、『日本書紀』では607年(推古15)のこととしているが、『隋書』倭国伝は600年(推古8)の高祖文帝の問いに日本の遣使が答えた様子を載せている。「開皇二十年、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩?弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。
開皇二十年は、隋の初代文帝の時で、600年(推古8)にあたる。この時派遣された使者に対し、皇帝は外務大臣に当たる鴻臚卿(こうろきょう)を通じて日本の風俗を訪ねさせた。使者は倭王を「天足彦」とも「大君」とも云うと述べているが、この時の使者の答弁は、一般論を述べたものである。ところが、皇帝が直接に政治を総理する中国の立場からみると、日本の政治のあり方が納得できず、道理に反したものに思えたのであろう。そこで改めるよう訓令したというのである。たしなめられて帰国するより外はなかった。第二回 (607年)
第二回目は、607年(推古15)に小野妹子が国書を持って派遣された。
倭王から隋皇帝煬帝(ようだい)に宛てた国書が、『隋書』倭国伝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々。」と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」と命じたという。無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな、というのである。しかし、それにもかかわらず、煬帝が倭王に宛てた国書は、比較的おだやかなものであった。「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭王は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」
遣使の派遣状況
遣隋使の派遣を年表風に整理すると次のようになる。
607年(推古15)第2回遣隋使、小野妹子らを遣わす。小野妹子、裴世清らとともに帰国する。
609年(推古17)小野妹子ら帰国する。
615年(推古23)犬上御田鋤帰国する。百済使、御田鋤に従って来る。