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| Table of contents |
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2 飛鳥・白鳳文化 3 主なできごと 4 著名な人物 5 遺跡 |
この頃から約半世紀の間、蘇我氏が大臣で、権力を握り、専制政治が続いた。特に、太子と推古が没した後は、蝦夷と子の入鹿(いるか)の専横ぶりが目立った。蝦夷が自ら国政を執った。紫の冠を私用した。終いには、太子の子山背大兄皇子を滅ぼす。政敵からの防備も怠らなかった。
小野妹子らを隋に遣わして、中国皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」の上表文(国書)をおくる。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努める。620年(推古28)には、太子は馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記す。
国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものである。
翌年の正月に改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。まず、官僚制の改革からである。東国国司の政治評定をし、官人の田地の奪取をやめさせるなどした。しかし、豪族の既得権は認めざるを得なかった。
飛鳥時代の政治
推古朝
538年(宣化3)に百済の聖明王、仏教と経綸を朝廷に贈り、仏教が公伝される。587年(用明2)天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が互いに兵を集めて対立する。後の聖徳太子は蘇我側につき、物部氏を滅ぼす。588年(崇峻元)蘇我馬子、飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。天智朝
645年(大化元年)の乙巳(いっし)の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(中臣鎌足)らが宮中(飛鳥板葺宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の専制政治を滅ぼした。今までは蘇我氏の大臣一人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の三人に改めた。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じた。
663年の白村江(はくすきえ)の戦いで大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であった。急いで防衛施設を造り始めた。664年(天智2)筑紫に太宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置く。都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。666年(天智5)には、百済人2千余人を東国へ移すなど、戦争準備が進んだ。
670年(天智9)全国的な戸籍(庚午年籍)をつくり人民を把握する国内政策も推進した。
東国に柵を造る。
天武・持統朝
天智天皇が没すると、たちまち皇族間の争いが始まった。672年(弘文元)壬申の乱である。天武が勝利した原因の一つには天智朝で始められていた律令制への移行に反対する地方豪族の支援があったためとみられている。天武天皇も国内政策の整備に努めた。672年の末に都を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開く、官人の位階昇進の制度などを新設や改革した。681年(天武10)には、律令の編纂を開始した。5年後の686年(朱鳥元年)に天武没する。8年後の689年(持統3)に諸氏に令1部22巻をわかつことができた。飛鳥浄御原令である。遣隋使や遣唐使の派遣が大いに役立ったことであろう。しかし、唐の律令がそのまま日本の実情には当てはまらなかった。削除・修正などを繰り返したと思われる。人民支配の戸籍づくりを始めた。690年(持統4)の庚寅年籍(こういんのねんじゃく)を造り、良・賤の身分を区別し、年籍で確定した。692年(持統6)には、四畿内に班田大夫を派遣し、班田収授法を実施した。694年(持統8)藤原宮に都を移す。いよいよ律令制国家を目指した親政政治が始まった。天皇中心で中央集権国家のことである。見方を変えれば完全・完璧な人民支配の方向へ時代が動き出したということになる。新令により種々の政治が行われた。律と令にそった政治を実施するために700年(文武4)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武5)に完成させ、702年(文武6)には、大宝律を天下にわかった。日本史上初めての律令政治の始まりとなった。人民支配の根本となる庚午年籍(こうごのねんじゃく)が703年(大宝3)に造られ、以後の時代の戸籍の原簿となった。七年後の710年(和銅3)には平城へ遷都した。
飛鳥・白鳳文化
主なできごと
蘇我蝦夷自殺する。(乙巳の変)
著名な人物
遺跡
古墳時代-飛鳥時代-奈良時代
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