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言語哲学とは、哲学の諸問題は、言葉の使い方を厳密化することによって解決されるとする一派。ウィトゲンシュタインやラッセル、ホワイトヘッドがその代表であるが、彼らは日常的な言葉遣いは誤りが多く含まれているために、真実には到達できないと考え、日常言語を論理化することによってその欠陥を克服しようとした。
具体的には、言葉をアトムと呼ばれる基礎語彙に還元し、その論理連接から命題を構築する。アトムは経験に基づいて選択され、現実との対比によって是非がつけられる。従ってそこから構築される命題も是非の判断が可能とされ、その命題群だけでもって哲学の議論はなされれば、全ての議論には明確に是非がつけられる、と考えた。
このような、哲学のアポリアを言語を解体することによって解決しようとする発想の転換は「言語学的転回」と呼ばれ、20世紀哲学を風靡したが、同時にその限界も明らかにされた。
一つはイエス・ノーの 2 値判断のつけられない価値命題の取り扱いで、ウィトゲンシュタインは宗教・芸術など、判断のつけられない命題を「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」として彼の哲学から除外したのだが、哲学は人間存在の全てを考察対象とする以上、このような哲学観は哲学の矮小化との批判が生じた。
さらにアトムと呼ばれる基礎語彙の選定に当たって、何がより基礎的なのかを一意的に決定する手法がない以上、そこには選定者の主観が介在することを避けられず、そこから構築される命題群にもまた主観が入り込んでしまう、ということである。これは主観を避けて厳密に科学的に議論しようとして言語改革を提唱した言語哲学者にとっては痛打であった。
またカントやヘーゲルといった哲学者の著書自体、発想の飛躍が多々あって、厳密に命題群には還元されないことも明らかにされ、最終的に不完全性原理の発見によって、そのような公理論的アプローチ自体、真理ではないと破産を宣告されるに至って、言語哲学は影響力を失っていった。
しかしながら言語が透明な存在でなく、それ自体の力学を所持し、人間の思考に影響を及ぼす、そのために言葉遣いを分析し、相応しい言語を使用することは、問題解決への有効な手段である、との発見は広く人々に受け入れられたと言ってよいであろう。