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1595年、秀吉から関白職を譲られていた豊臣秀次が失脚、切腹したため、秀頼が豊臣家の世継ぎとして伏見城で育てられた。しかし、1598年秀頼が幼年のうちに秀吉が死去したため、その遺言により政権は五大老・五奉行の合議に委ねられ、秀頼は大坂城に移った。
1600年の関ヶ原の戦いの後、直轄領を大幅に削減され、さらに徳川家康が征夷大将軍に任じられたため、秀頼が幼少のうちに全国政権の担当者としての実質は豊臣家から失われていった。秀頼はこれにより摂津国などにわずか65万石を領有する一大名に過ぎなくなるが、官位は次第に累進し、ある程度の権威は保持した。
この間に、徳川秀忠の娘千姫(家康の孫)と結婚し、1611年には二条城で徳川家康と会見。しかしその後も徳川氏に臣従することはなかった。
1614年、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と決裂し、大坂冬の陣が勃発。一時的には和議に成功するが、翌1615年に再武装をとがめられて大坂夏の陣を起こされて敗北。大坂城落城の際に母とともに自害した。
秀頼は公家風の教育を受けていたと言われ、伝存する筆跡は高い評価を受けている。